「ミルク」

knockeye2014-06-11

ミルク [DVD]

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 少し前の映画だけれど、「ミルク」を観た。この年のアカデミー賞では、作品賞を含む8部門にノミネート。ショーン・ペンは2度目の最優秀主演男優賞を受賞。ダスティン・ランス・ブラックは最優秀脚本賞を受賞している。
 見比べるつもりではなかったけれど、最近観た「チョコレートドーナツ」も、この映画を前にすると色あせてしまう。
 その「チョコレートドーナツ」の時にも書いたけれど、わたしはまだ幼い頃に、同性に性的ないたずらをされたことがあるので、今でも男性の同性愛者については、条件反射的な忌避感を覚える。
 だからといって、同性愛者を差別したつもりはないが、ただ、彼らに対して少々辛辣になることは自分に許しているので、「クスリで治るんなら治した方がいいんじゃないの?」みたいなことを、あのとき書いたのだけれど、この映画を観て、彼ら自身も、自分たちが「正常ではない」のではないか、という懼れに常に苛まれていることに気がついた。
 つまり、ゲイである自由を宣言することは、彼ら自身が生きるためのぎりぎりの叫びであって、冷たい科学的な定義ではない。
 「ジャンゴ」に、レオナルド・ディカプリオが、黒人の頭蓋骨の形を云々するくだりがある。今にしてみれば、とんでもない似非科学だけれど、当時としては、それが科学そのものなのであり、であってみれば、当時、黒人差別は科学的でさえあったわけである。ナチスユダヤ人差別も、遺伝的欠陥がどうたらこうたら言っていたわけだし、最近読んだ本には、私的会話ではあるが、フランクリン・ルーズベルトは、イギリス公使ロナルド・キャンベルに「極東での悪業は、日本人の頭蓋骨が未発達なせいだ」と語ったそうだ。
 差別は、科学に擬態し、宗教に寄生する。
 学校からゲイの教師を追放しようとするブリッグス議員はこういう。
「わたしと議論はできても、神と議論はできない。‘You can argue with me . But , you cannot argue with God .'」
 こうした似非科学と科学、似非宗教と宗教を区別するのは、考えているよりずっと難しい。たしか、福岡伸一だったと思うが、科学的迷信のほとんどは科学者が発信するといっていたし、教条的になりさえすれば、キリスト教徒は、いつでも大審問官になれるはずである。
 わたしは仏教徒であるし、キリスト教という宗教にはあまり感心していない。とくに、上のような態度が、‘熱心な’キリスト教徒に支配的な態度と見えるからだ。この映画に出てくる、70年代のアニータ・ブライアンという女性と、キリスト教コミュニティーの関係は、ペイリンと茶会派を思い出させる。なんか、服のセンスまで似ている。
 キリスト教の本質を考えるときに、わたしがいつも思い出すのは、昔、曾野綾子がテレビで言っていた、彼女が、あるシスターに「神様はどこにいるのでしょうか?」と尋ねたら、「神様は、あなたの目の前の人の中にいるに決まっているじゃないの」と応えられたという話。本来、キリスト教的という言葉はこういう意味に使われてきたのではないか。しかし、それを実践できる人は少ないと思う、いないと言ってもいいのかも、当の曾野綾子も含めて。
 この映画には、当時の実際の映像も使われている。ある人が、たぶん、公開討論の質疑応答か何かだろうか、ブリッグス議員にこう問いかけている。
「‘自分を愛するように隣人を愛せ’この提案6号(ブリッグスが提案した、同性愛の教師を学校から追放する条例案)が、子供たちが自分と違う人々をどうやって受け入れるか、学ぶ手助けになると、ブリッグス議員、どうやったら思えますか?
'Thou shalt love thy neighbor as thyself' And I would like to know how you , Senator Briggs , believe that Proposition 6 will help children learn how to accept people who are different from themselves.」
 「メン・イン・ブラック3」「恋のロンドン狂想曲」に出る前の、ジョシュ・ブローリンが、けっこう重い役で出ている。うまいキャスティングだと思った。