世田谷美術館に「ボストン美術館 華麗なるジャポニズム展」を観にいった。
用賀駅から直行バスがでているので、それに乗ったのだけれど、このごろ東京を騒がしている「ゲリラ豪雨」というやつを経験した。今、バスが停車しているあたりは降っていないのに、フロントガラスごしに、次の信号あたり土砂降りになっているのがわかる。そこにつっこんでいくわけ。
ロシアをバイクで走っているときに、丘の向こうから雲の影が流れてきたりするのは経験したことがあるが、東京みたいなせまっ苦しいところでは、何とも珍しい眺めだった。
美術館に着く頃には小止みになっていたし、美術館を出る頃には晴れ間ものぞいていたが、今思うと、たまたま直行バスに乗ってたからよかったけど、いつもみたいに砧町のバス停から歩いてたらひどかったな。
ジャポニズム云々の展覧会は、日本で美術館巡りを趣味にしていると、定番になっていて、ときには、「これ、ほんとに日本の影響?」って思うような、苦しまぎれ的な煮詰まり感を漂わせているものもあるのだが、今回の展覧会は、展示品すべてがボストン美術館所蔵で、日本の巡回展での展示作品の選定も、ボストン美術館側がすべてした。
その意味では、日本人の視点ではなく、現にジャポニズムとして日本を受容した側の視点で、ジャポニズムを観ることができる、ほんとのジャポニズム展なわけ。ナシュビルを皮切りに、日本各地を巡回した後、カナダにまわり、サンフランシスコに帰る。
そして、今回の展覧会のフックは、なんといっても、修復後、世界初公開となる、クロード・モネの「ラ・ジャポネーズ」。
・・・なんだけど、モネの絵としても、ジャポニズムの絵としても、そんなに重要な作品ではないんだ、たぶん。
第二回の印象派展に展示されたそうなんだけれど、そのときは「ラ・ジャポネーズ」ではなくて「ジャポヌリ」という題だった。‘日本趣味’というほどの意味。
第一回の印象派展で、モネはのちに印象派の名前の由来となる「印象・日の出」を発表しているわけだから、その後の風景画家モネの展開を考えると、このエキゾチックな肖像画は、後退か、すくなくとも余技に見える。今回、この絵の成立事情を知って、すごく面白かった。
「ラ・ジャポネーズ」の10年前に、モデルも同じカミーユを描いた「緑衣の女」という肖像画があって、それはモネの出世作となった絵だった。800フランで売れたし、その後、肖像画の依頼も獲られたそうなのだ。
第一回の印象派展は、周知の通り、当時けちょんけちょんにけなされた。今では、けなした方がバカにされているけど、それは今からふりかえって言えることで、当時のモネの立場としては、ちょっと困ったことになった。それで、二回目の印象派展にこれを出したのは、おもに経済的な理由だったようだ。
「ラ・ジャポネーズ」、当時の題では「ジャポヌリ」は、パトロンの販売会に回され、そこで2020フランの高値で競り落とされた。セザンヌが驚愕してピサロに書いた手紙が今でも残っているそうだ。
ところが、その競り落としたのは誰かというと、どうやらモネ本人だったらしい。その一年後、また競りに出された「ジャポヌリ」は、さらに400フラン値上がりして、コンスタンティン・ド・ラスティ伯爵というルーマニアの貴族の所有となった。
この辺のからくり、経済に疎い私は完全にはつかみきれないが、モネは事情を知っているマネの弟に「内緒にしといて」という手紙を書いているそうだ。
後年、ド・ラスティ伯がこの絵を手放したとき、アトリエを尋ねてきた人とモネとの会話を、ルネ・ジンペルという画商が憶えていた。
‘「聞いたかい?」ベルネムは尋ねた。「君が描いた扇子を持ったジャポネーズ(ちなみにこのころにはこの絵は「ラ・ジャポネーズ」と呼ばれていた)をロザンベールがものすごい金額で購入したよ。
「何だって!」モネは叫んだ。「彼もガラクタ(salete)をつかまされたな」。
「ガラクタだって?」ベルネムは驚いて尋ねた。
「ああ、そうさ。ガラクタさ。あれはただの思い付きさ」。’
ひどい話っちゃひどい話だけど、誰も損していないし、傷ついた人もいない。現に、こういう話が平気で図録に載ってるんだし。
この絵は、モネの中ではもっとも浮世絵らしいとも言える。カミーユの腰のあたりでへしゃげている武者の顔のユーモラスなところなど、国芳のしゃれっ気に通じるようだ。
この紅の打ち掛けの図案は、月岡芳年も作品にしている、「平唯茂の鬼退治」の図案ではないかと考えられているそうだ。