‘19世紀後半、日本のあらゆるものにとりかこまれて、独特の熱狂が存在したのがボストンである。そこでは、コレクターたちと学者たちが、失われていくひとつの文化を表していると信じた美術品を保存しようとしていた。’と、図録にある。
そして、その努力を主導したのは、アーネスト・フェノロサ、ウィリアム・スタージェス・ビゲロー、エドワード・シルヴェスター・モース、岡倉覚三だった。どれも日本人にとって、なじみの深い名前だ。
また、ボストン美術館のキュレーターで、美術教育の基本図書、『構図』を書いた、アーサー・ウェズリー・ダウは、「北斎を見ていた一晩は、何年にもわたる絵画の勉強にもまして、構図と装飾的効果について、より明確な指針を与えてくれものだった」と語っている。彼は、イブスウィッチで夏期講習を開き、多くの女子学生を指導したが、ジョージア・オキーフもそのひとりだったそうだ。
ジョージア・オキーフは、のちに、草間弥生が渡米する助言をしている。無名の日本女性の手紙に返事を書いた、ジョージア・オキーフの気持ちには、このときの‘日本’の印象があったのかもしれない。
岡倉天心がボストンで扶持を得たのは日米関係を考えると面白い。フランスでどんなにジャポニズムが流行したとしても、フランスのアカデミズムが日本人を招き入れたとは考えられない。
カイユボットの時に書いたけれど、彼が夭逝したときルーブル美術館に遺贈しようとした印象派のコレクションが、いったんは受け取りを拒否されたのだ。それは、19世紀末だが、そのころのフランスでは、印象派ですらそんな扱いだった。
印象派とジャポニズムは、19世紀末から20世紀前半、美術史の大きな潮流であり続けたと思うが、絵画の面で、ジャポニズムの主たる源泉が、浮世絵であったかぎり、ジャポニズムは、日本の美の全体像ではなかった。
日本の美の体系は、茶を抜きにしては考えられないので、岡倉覚三が「茶の本」を英語で上梓したのは、その辺の懸念があったのかもしれない。ジャポニズムに惹かれて、日本の美全体を探ろうとした誰かがいたとしても、岡倉覚三のその時代でさえ、日本の美の伝統がライヴで存続していたかどうか。
おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。
西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。
近ごろ武士道 − わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術 − について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。
もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが藝術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。
今という時代になっても、『茶の本』のこの一節はますます重みを増していると思う。
ナチスドイツによるパリ陥落の寸前に、日本にむけて出航したシャルロット・ペリアンが、それまでに日本について得ていた知識は、坂倉準三から贈られた『茶の本』だけだったという。
今回の展示で、ジャポニズムの影響がどれほど遠く深く及んだかについて納得させられたのはこのティファニー工房のデスクセット。
一見して、型紙だと思ったが、金メッキなのだそうだ。着物の型染めに使う型紙は、‘19世紀末に欧米に多く流出しており’、ボストン美術館にもビゲローが収集した5000点の型紙があるそうだ。
そんなものまで持ってったの?、という感じだけれど、これを収集した人がやっぱえらいのであって、収集は第二の創造、もしくは、創造の仕上げなのかもしれない。
当時のボストンは、一方で日本の専門家を招いてまで、日本美術の収集をしつつ、一方で、フランス本国より早く印象派を積極的に認めて購入していた。何とも不思議な文化の十字路になっていたかに見える。
ところで、今回、ロートレックの私の好きな絵が絵はがきになっていたので手に入れた。
ロートレックがよくモデルにした踊り子、ジャヌ・アヴリルが印刷所で版画の仕上がりをチェックしているところ。そこはかとなくおかしい。