‘強制連行’というファンタジーについて

knockeye2014-07-09

 シンガポールのリー・シェンロン首相が、ワシントン訪問中に、「第2次世界大戦を克服できない限り、また問題を追及する姿勢を改めて、従軍慰安婦問題や侵略の歴史をこれ以上取り上げないようにしない限り、引き続き関係を損なうことになる」と日本とその近隣諸国が、第2次世界大戦を克服すべきだとの見方を示したそうだ。
 橋下徹の発言以来、慰安婦問題についていろいろ考えてきたが、ネットでの議論を見るかぎり、この問題はもはや、多分に儀式的な非難の応酬という形式に落とし込まれて、これ以上の発展は望まれないようだ。
 それで、今の時点で橋下徹の発言をふりかえると、安倍首相の‘侵略の定義’云々の発言に対して、「第二次大戦における日本の行為は侵略であったと認めるべきだ」とした上で、但し書きとして、慰安婦問題に疑義をはさんだので、今思えばまったく穏当なものだった。
 慰安婦問題とは何かといえば、それが1950年代に問題にされたならともかく、1990年代にうかびあがったその慰安婦問題は、広い視野に立てば、徐々に国力を増してきた韓国で、ナショナリズムが勃興してきたというにすぎない。
 第二次大戦中、アジアで起こったすべての悲劇の責任は日本にある。このことについて今更争うバカがいるだろうか。それについては、いくら謝罪しても足りないし、すでに謝罪もしたし、これからも謝罪し続けていくべきなのだ。
 しかし、金銭的な補償についてはすでに日韓で合意されていたについては誰も異論はないはずだ。
 では、なぜ慰安婦だけは別扱いなのか。その根拠は何なのか?。すくなくともわたしの理解では、「強制連行の有無」は、その議論の上で出てきた争点のはずだった。
 まずはこの点で、論点のすり替えを感じる。「慰安婦の存在」を議論しているのではない。また、「強制連行」の事実を議論しているのでさえない。「慰安婦」「強制連行」が、日韓で戦後補償をとり決めたときに、意図的に隠匿されていたとすれば、それについては新たな補償の対象になりうるのではないか、という議論なのだ(それについても反論は可能だ。なぜならそうした新事実をすべて掘り返すことが困難だからこそ、一括に多額な補償をおこなったのだから)。
 個々の兵士、個々の隊で、そうしたレイプがあったかどうかは、争点ではない。「慰安婦問題」が、日韓両国ですでに決済済みの戦後補償の「別枠」であるという主張の根拠に、その「強制連行」が、なりうるのかが争点なのだ。
 「河野談話の再検証」は、韓国側の主張が、単に元慰安婦の証言を羅列しただけで、何の裏付けもないお粗末なものだったという事実を明らかにした。つまり、その時点で「強制連行」の証拠はおろか、韓国が何の根拠ですでに解決済みの補償に、新たな補償を求めるのか、その論拠すら示されていなかった(だから、河野談話が作成された時点では、韓国は金銭を要求しないはずだった)。
 刑事事件では、一事不再理ということをいう。こうした戦争犯罪についてそれをいうつもりはないが、しかし、1945年に終わった戦争について、1991年に訴えるにしては、あまりにも検証が杜撰ではなかったか。そして、現に、いくつかのウソ(存在したはずのない慰安所で働いていたなど)が明らかになっている。
 それでは、「河野談話」とはいったい何だったのか?。河野洋平は何を謝ったのか?。そもそもあれは謝っているのか?。
 私には混乱以外に何も見えない。あえていえば、韓国の国家主義者は根拠も論拠もなくても、日本に恨み言をぶちまけたかったのであり、河野洋平は、根拠も論拠もなく、謝りたかった(政治的パフォーマンスと言われても仕方ない)。私はこの問題はファンタジーにすぎないといっているけど、そう言って何か問題があるか?。
 ただし、繰り返しておくけれど、第二次大戦中にアジアで起こったすべての悲劇について責任を負うべきは日本である。このことは、私たちは常に胸に刻んでおくべきことだ。ただし、それはもう政治の仕事ではない。歴史の仕事だ。
 もし、慰安婦問題について、韓国が、きちんと検証して、正当な手順で訴えをおこし、日本側も、徹底的に調査したうえで謝罪していれば、こんなかたちで遺恨を残すこともなかっただろう。国家賠償は無理だったかもしれないが、アジア女性基金はもっと有効に機能していただろう。その意味でも、あのきわめて政治的な「河野談話」の罪は重いと私は思う。