「反ヘイト」とヘイト

knockeye2014-07-16

 今から一ヶ月前に、ニューズウィーク日本版に載った「反ヘイト」の記事について書いた。
在特会の差別的言動が、公共に対する暴行であり、自分たちの社会の価値を侵害していると、多くの人が感じて、自然発生的な「反ヘイトデモ」へと結集していったことを、わたしは頼もしくも誇らしくも思う'
と書いた。
 そして、「反ヘイト」に批判的なニューズウィークの記事については

 わたしが個人的にこの記事の根本的な誤謬だと感じるのは、
‘反ヘイト団体は「反差別」という絶対的な大義を盾に・・・云々’
というところ。
 「絶対的な大義」などというものは存在しない。むしろ、「絶対的な大義」という妄想が、差別を生む。「反差別」の行動は、大義を振りかざしているのではない。目の前にある暴行に抵抗しているだけだ。

と書いたが、今日の報道によると、「反ヘイト」を名乗る「男組」という団体の幹部8名が、ネトウヨへの暴行容疑で逮捕された。
 逮捕それ自体はたいしたことではないけれど、
‘男組側はこの様子を撮影した動画をインターネットに掲載し「レイシストを急襲した」とHPの活動履歴で紹介していた。'
っていうくだりはがっかり。
 つまり、ニューズウィークの記事の通り、「反差別」という絶対的大義を盾にしてるんであって、私が書いたように「目の前にある暴行に抵抗しているだけ」ではなかったということらしい。私の弁護よりニューズウィークの批判の方が正しかった。
 この人たちは、自分が正義の味方にでもなったつもりで、自分たちの大義に市民が賛同していると思っているのだろう。
 しかし、公共という価値を共有していると信頼したからこそ、市民がかれらの側についたのであって、その信頼を軽んじ、平気で踏みにじる行為に逸脱するなら、市民にとって、「ヘイト」も「反ヘイト」も公共の価値を損なうという点で何ら変わらない。
 まっとうな社会の一員であることの方が、正義の味方であることよりずっと価値があるのに、日本のこういう運動は、反安保のころから、いつの間にか市民感覚から逸脱し、逸脱することで尖鋭化し、尖鋭化することでさらに市民から乖離する、という末路をたどるのはどうしてなんだろう。
 日常生活の質が低いからなのかもしれない。しかし、それはニワトリと卵で、こういう運動が規範を引き上げ、そういう規範が生活に定着していく、といった相乗効果があってもよさそうなのだが。
 こないだ映画館の帰り、エレベーターが開いて女性2人が降りた。階下に降りていくエレベーターは私と、前から乗っていたおじさん2人になった。すると、そのおじさんの一人が「今のチョンかな?」と、もう一人に言った。さっき降りていった女性が英語で会話していたからなのだが、こういうことを平気で口にできるおっさんが、結局、都議会でセクハラヤジを飛ばしたりするのとご同輩なのだと思うがどうだろうか。
 こういう規範の貧弱な日常がベースにあるから、市民運動もまた暴走するんだろうと思う。
 ただ、ひとつ余計なことを書いておくと、これ大阪府警なんだよね。大阪府警は、中田カウスとかメッセンジャー黒田の例でわかるように、でっち上げは日常業務だと考えていいから、もしかしたら、こないだ橋下徹大阪市長がヘイトデモを市内で禁止すると発表したことと何か関係があるかも。
 まあ、大阪府警に正義は存在していないから、大阪府警に逮捕されただけでは、関西人はそれで人物の評価を変えたりしないのだけれど、そうじゃなくて、暴行現場の動画をネットにアップしていたのがさもしい。