国立新美術館にオルセー美術館展を観にいった。
書き忘れてるけれど、先週末は、フィオナ・タンだけでなく、国立新美術館で開催中の「バレエ・リュス」の展覧会も観に行った。そのとき、そこでオルセー美術館展もやってるって知ったんだけれど、オルセー美術館のわりには混雑の気配がない。おやっ、ていうわけ。しくじったんじゃないのかなぁ、文科省の天下りどもがよ、と思いつつ、展示作品リストをつらつら見てみると、財力にものを言わせて、なかなかの名作をそろえている。とくに、カイユボットの「床削り」が来ているので、カイユボット展の時に観られなかったし、あんがい、空いているし、ということで見に来る気になった。
でも、もちろん、朝イチで出掛ける。いくら空いているといっても、比較の問題にすぎなくて、「にしちゃ混んでない」というだけで、混んでるか混んでないかかと言われれば、いずれにせよ混んでる。
展覧会は、マネを軸に、印象派にしては渋好みのキュレーションに思えた。ドガ、ピサロ、シスレー、カイユボット。モネやルノワールも渋めの作品。
カイユボットが第二回の印象派展に出品した「床削り」。削られている床、まだ削られていない床、作業する人たちの背中、壁の直線的な模様、対して曲線的な窓外の欄干、その全体を統一する間接光の描写。でも、この絵を本当に魅力的にしているのは、図録に「虚構のローアングル」と書かれている、不思議な高い視点だろう。こういう風に見えるってありうるかなと考えてみるんだけど、たぶんありえない。床だけはずいぶん高い位置から見下ろしているように見えるが、人や壁は、ほとんど彼らと同じ目線くらいまで低い位置から見ているように描かれている。
描かれているもののそれぞれの質感はすごく写実的なのに、アングルは非現実的というこういう絵はカイユボットにはけっこう多い、カイユボット展でいえば、「ヨーロッパ橋」とか「昼食」とかもそうだった。これはひとつには、スケッチのかわりに写真を使っているからかもしれないが、後に続くセザンヌやピカソの‘複数の視点’の先駆となっている。
エドガー・ドガの数多い踊り子の中でも、今回展示されているのは、第一回印象派展に出品されたもの。これは当時もとても評判になったらしい。有名な「エトワール」もたしかに華やかだけれど、今回のキュレーションが渋好みといったのは、こういったところ。
印象派の風景画を集めた部屋は充実していた。
シスレーの雪景「ルーヴシエンヌの雪」
と、モネの雪景「かささぎ」
とか、こんなふうに、セザンヌの水辺にルノワールの水辺、モネの水辺、ピサロの田園に、シスレーの田園、セザンヌの田園、といった具合にいろいろな画家の同じようなテーマを描いた絵の競演を楽しめるようになっていた。
さっきの雪景でいえば、やっぱりシスレーは、すがすがしい明るさを好むのに対して、モネは、傾いた日差しの作る微妙な色の変化を捉えたいようだ。
ところで、今回展示されているモネの作品で最も打たれたのは、32歳で亡くなったカミーユを描いた「死の床のカミーユ」だろう。それまで何度もモネのモデルを務め、生活の苦労をともにしてきた女性の死に顔に、死が刻んでいく色の変化を写し取ろうとした、モネの色彩に対する執念、色彩ですべてをとらえようとする信念のすごさを思った。
「彼女の悲劇的なこめかみに見入りながら、もはや動かぬ顔に死が押しつけた連続した色合いと、それが白に近づいてゆき調和する様子を思わず無意識に探しているほどでした。青、黄色、灰色、その他いろいろな色調を探していたのです。
(略)
深い愛着を覚えていた顔立ちを描きとめようという考えが浮かぶ前に、まず色彩のショックに対して体がおのずとざわめき始めました。そして私の意思に反して、人生の日課となっている無意識的な作業に、反射的に取りかかったのです。」
と、数十年後に述懐しているそうだ。
肖像画では、ホイッスラーの「灰色と黒のアレンジメント第一番」
もよかった。今年は、京都と横浜に大規模な回顧展が巡回する。
ファンタン=ラトゥールの「花瓶の菊」。
ファンタン=ラトゥールって‘言いたい名前’じゃないですか。でも、絵はいままでぴんときたことなかったんだけど、この菊の絵はすごかった。これは写真では再現できない。花びら一枚一枚の正確な位置を三次元で再現しているかのような精細な描写で、これはたしかに印象派が失った表現だろう。
マネの「笛を吹く少年」で始まった展覧会の最後をマネの「ロシュフォールの逃亡」がしめている。
キュレーターの趣味の渋さがこういうところにも表れている。