フィオナ・タン まなざしの詩学 2回目

knockeye2014-08-03

 土曜日のつづき。
 せっかく渋谷にでたので、恵比寿の東京都写真美術館で、こないだ全部見られなかったフィオナ・タンの続きを見ておくことにした。
 ところで、わたくし今「見られる」と正しい日本語を使ったわけだが、これが、「見れる」と崩れると「ら抜き言葉」といって、識者の顰蹙を買う。しかし、一方には擁護論もあって、「見られる」には上のような「可能」の用法と、フィオナ・タンの展覧会に行くところを「誰かに見られた」というような「受動」の用法のふたつがあってまぎらわしいので、「見られる」は「受動」、「見れる」は「可能」と分化したという意見もある。
 で、なにが言いたいかというと、最近、ときどき耳にするようになった表現に、「ら抜き」ではなく「れ入れ」とでもいうしかないものがある気がする。「着れれる」っていう表現、耳にしないだろうか。これはたぶん「きられる」「きれる」は、芸者の時にいう言葉「切る」の意味が強く出るからだと思う。「その服、きられる?」でも、「きれる?」でも、「切るのかよ」って突っ込みたくなるんだと思う。それで、「着れれる」って言うんだと思う。これがだんだん「来れれる」とか「出れれる」というふうに語幹が短い動詞に伝染してゆきつつある気がする。
 「見られる」で思いだしたけど、井の頭線で、宮藤官九郎を見たな、たぶん。宮藤官九郎くらいはぎりぎり大丈夫なんだろうな、井の頭線。たぶん、もっとセレブになると、自動改札で止められると思う。
 東京都写真美術館は、九月から改装工事で2年休館する。つぶれるわけじゃないけど、友達が転校するみたいな気分。
 フィオナ・タンの展覧会に関しては、一枚のチケットで2回くらいは入れるようにしてもらいたかった。だって、「興味深い時代を生きますように」と「影の王国」だけで、休憩はさんで2時間かかるわけじゃないですか?。それにくわえて、短いとはいえ、動画作品が4つあるわけじゃないですか?。一日じゃ無理とは言わないけど、二日に分けさせてもらっても罰は当たらないと思うんです。
 今回は、「ディスオリエント」、「プロヴィナンス」、「インヴェントリー」。
 「プロヴィナンス」(2008年)は、レンブラントのような肖像画が動画で可能かという作品。これは、動画を表示するハードが、絵や写真と肩を並べるくらいに美しくなったことを改めて思い知らせてくれる。アーティストのインスピレーションを刺激するようなハードの進化が、これまで見たことももないような美しい動画を生み出すかもしれない。そんな可能性を感じた。

 「ディスオリエント」に表現されている、マルコ・ポーロに、惹かれながらも反発するといった、相反した感覚は理解できる。マルコ・ポーロが、旅人として、エトランゼとして、表面的になぞってゆく事物に対して、華僑を父に持つ彼女は、自分自身の文化的背景、時間軸方向に厚みを持った伝統を感得せざるえないだろうが、しかし同時に、彼女自身も、そうした伝統から疎外されていることもまた事実のはずだからである。
 しかし、それは、彼女自身、確信しているに違いないことだろうが、現実には帰属するべき集団をもたない、いわばディアスポラである彼女の内面に、東洋的な伝統、事物、習慣に対する、親密な理解力が備わっていることは、奇跡的に魅力的なことだし、異文化横断的な感性は、とかく、集団に埋没してしまいがちな人間にとって、作品という形をとって、提示される価値のある感じ方だと思う。
 ちなみに「disoriented」は、「方向感覚がなくなる」といった意味だが、「Orient」に対する両義的な感覚もかかっているだろう。
 「インヴェントリー」という英語は、一部業界で、「棚卸し」という意味ですでに日本語化しているが、「資産目録」という意味でもあるらしい。「ディスオリエント」に対して、こちらは、ヘレニズムの世界、ギリシャ・ローマの彫刻が多い、ジョン・ソーン卿のコレクションを、様々なメディアで撮影し、さまざまなサイズで出力している。
 「影の王国」でも、「彫刻は映像である」という印象的なことばがあったが、今回の展覧会のために来日したときのインタビューでは、「私は自分を彫刻家だと定義している」と語ったそうだ。
 その感覚がいちばんよく分かるのは、この作品かもしれない。それは単に彫刻が映っているという意味ではなくて、彼女の映像は、絵画より、もっと「モノ」にちかい感じがする。まさに、インベントリーで、陳列、展示された状態ではなく、無造作に置かれている生々しさを感じる。
 ちなみに、このあと、森美術館で開催されている「ゴー・ビトゥイーンズ展」にいったが、そこにも彼女の作品が展示されていた。が、それはまた別の機会に。