虚偽報道の本質について

knockeye2014-08-06

 朝日新聞が、慰安婦の強制連行の記事について、虚偽があったことを認めた。今まで公式に認めていなかったとは知らなかったけど、事実上、世界中に流布喧伝された「従軍慰安婦問題」のイメージはこの記事が決定したのであって、他の事例はその傍証として語られてきたにすぎない。
 たとえば、「強制連行」の証拠としてよくあげられる白馬事件は、たしかに、慰安所と強制連行が事件に登場はするけれど、それが、一般的な慰安所で日常的に強制連行が行われていた証拠とはとてもいえない(そもそも白馬事件に、韓国人は関係すらしていない)。
 旧日本軍の残虐行為を、弁護するつもりもなければ、もちろん、否定するつもりなど毛頭ない。その徹底的な謝罪と反省から、私たちの戦後が歩き始めたことは今さらいうまでもない。そもそも、吉田証言のウソでさえ、旧日本軍に対する強い憎しみに発していることに気づいてもよい。
 戦後70年、日本国民の意志によって一貫して平和主義が貫かれてきたことは、国際社会のよく知るところのはずだ。
 朝日新聞慰安婦報道によって「日本人は謝罪が足りない」ならまだしも(足りる足りないは、被害を受けた側の腹具合ひとつには違いないものの、国家間で合意した30年もあとに、また新たな補償を求める態度は芳しいとまで言えないと思うが、それでも、アジア女性基金という形で、当時の多くの日本人から、謝罪のための浄財が寄せられたにもかかわらず、国家賠償でないかぎり受け取れない、受け取ったら「国賊」だなどという態度が、はたして平和や人権を思ってのものか、それとも、国粋主義的な排外行為かを考えてもらいたい。不寛容と差別に大差はない)、「日本人は謝罪していない」かの虚言を国際的な舞台で、ことあるごとに吹聴する態度がまかりとおるには、もちろん憤りを感じている。これについての責任を、朝日新聞がどれほど重く受け止めているか知らないが、戦時中に軍部に率先して戦意高揚に邁進したデマゴーグの体質が何も変わっていないことだけは、ここでもまた白日の下にさらされたわけである。
 日韓両国民の間に生じた感情的な行き違いは、この朝日新聞の虚偽報道(というよりほとんどキャンペーンだが)と、それから河野談話に端を発しているが、このふたつに共通しているのは、「裏付け調査をしていない」ことである。まともな報道機関が、ただの伝聞でこのようなデマを流布し、まともな政治家が、証言の裏付けもとらないままに、独断で‘強制連行’を謝罪したグロテスクは、ちょっと他国に例のない異常事態と思われる。
 「吉田証言が虚偽だったからといって、慰安婦問題の全体像はかわらない」といった論法も散見しているが、そもそもその‘全体像’自体が、この虚偽報道をなんとか補強しようとしてかき集められた傍証の集積にすぎない以上、その核となる報道が全くのでたらめとなった時点で意味をなさない。逆に、核となる報道がしっかりしていさえすれば、‘全体像’は必要ない。
 たとえば、白馬事件と松本栄好氏の証言を、「慰安婦問題」のフィルターを取っ払って、読み返してみるとよい。たしかに、どちらも皇軍兵士の暴虐行為ではあるものの、まったく別の事件だと気づくはずだ。むしろ、「従軍慰安婦」という朝日新聞社製のフィルターがかかっているために、慰安婦以外の悲惨が篩にかけられてしまう。松本栄好氏の証言では、慰安婦ではない女性が、慰安所ではない場所に監禁されて、くりかえしレイプされている。こうしたケースは慰安婦の‘全体像’からは漏れてしまう。
 「全体」に存在する人権などない。人権は個々人にしか存在しない。人権派が全体を語ること自体滑稽だろう。こうして、「慰安婦問題」はプロパガンダになり、現実から乖離していく。
 何度となく書いてきたけれど、慰安婦問題はファンタジーにすぎない。悲惨な慰安婦はいる。しかし、慰安婦の悲惨さなどというものはない。
 言葉の背景にかならず事実があるとはかぎらない。「慰安婦」ということばは、「敗戦」を「終戦」、「占領軍」を「進駐軍」、「再軍備」を「自衛隊」と言い換える、役人言葉の一例にすぎない。それをいま「sex slave」と言い換えることの意味は明瞭だ。支配者が変わったのである。
 こんなことを「人権」とか「リベラル」と本気で呼べる連中だからこそ、「皇軍」とか「聖戦」とかの言葉を戦時中には平気で口にできる。その言葉の軽さにこそ、私たちはもっと警戒すべきだろう。