キネティック・アート、ヤゲオ財団コレクション

knockeye2014-08-09

 土曜日は出勤だった。だけでなく、深夜と呼べる時間帯まで働いている。
 まだ書いていない展覧会について。新宿の損保ジャパン東郷青児記念美術館で開かれている、キネティック・アート展。
 キネティック・アートだけでなく、錯視を利用した作品が私は好きなのだけれど、アートの潮流としてのキネティック・アートはもう過去のものなのだそうだ。
 一点だけラファエロ・ソトがあった。私にとってのキネティック・アートは、つまりラファエロ・ソトであって、ラファエロ・ソトが見たかっただけなんだなと。
 東京国立近代美術館で「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展」。何かと思えば、台湾のヤゲオ財団コレクション展だった。
 そういうわけで近現代のアジア人の作品比率が高いが、こうやって俯瞰で眺めてみると、近代以降、中国の画家も日本と事情は同じで、どうしても西洋絵画の影響を脱しきれない作品が多く、力強さを感じさせる作品はそんなになかったが、そのなかではやっぱり、ザオ・ウーキーが図抜けているように思えた。とくに、「26.8.94」という作品は、200×260cmのキャンパスに色とりどりの油彩絵の具をぶちまけた作品なのだが、近づいてみると、表面にひびが入り始めているのに感動した。細かなひびで、まるで青磁の貫入のように美しい。時を経て、ザオ・ウーキーの抽象画にこんな東洋的な美が住みついている。画家本人がこれを見たらなんというか聞いてみたい気がした。この貫入も美でしょうか?。それとも、変質と崩壊の一過程にすぎないのでしょうか?。
 ザオ・ウーキーときいて思い出すのは、「キューティー・アンド・ボクサー」という映画で、乃り子夫人が「グッゲンハイム来ないわね」というと、篠原有司男が「ザオ・ウーキー買ったんだろ」というところ。
 具象画では、スー・ウォンシェンの「川の桟橋」という絵がよいと思う。
 他に、アンドレアス・グルースキーとか、アンディ・ウォーホルとかは、個人の展覧会があったばかりなので、強い印象は受けなかった。今回はそれより、近現代のアジア人の画家たちの絵がやはり観るべきものだとおもう。
 このコレクションを観て改めて思うのは、中国人だから、韓国人だから、どうのこうのみたいな気持ちを抱いたことは個人的には一度もないし、70年代、80年代、90年代も、おそらくもっとつい最近まで、まわりもそんなもんだろうと思っていた。ザオ・ウーキーにせよ、ナム・ジュンパイクにせよ、国籍がどうとか気にしたこともないし、正確には今も知らない。どういうわけで、日本にこんなに差別主義者が涌いて出たのかまったく意外だが、おそらく、昔からこういう連中もいたのだろう。ただ、今こうしたレイシストが目に付くようになったのは、インターネットの普及も一因には違いないが、それよりも、知的スタンダードとしての教養が信頼を失ったことが大きいと思う。言い換えれば、ジャーナリズムが、知性で現実に立ち向かう勇気を失い、硬直化し教条的になり、市民の現実と乖離してしまった。
 具体的に言えば、慰安婦の報道。提示している事実は虚偽なのに、「全体像は正しい」という論理は、その「慰安婦」が現実ではなく、すでに思想であることをしめしている。少なくとも報道の上では、慰安婦はもはや思想なのだ。貧弱な現実しか提示できないのに、思想だけはゴリ押ししてくる。こうしてジャーナリズムは市民の信頼を失った。この構図が、慰安婦報道に限らないことに気がついても良いだろう。