ゴジラを英語表記するとなぜ「D」が入るか?

knockeye2014-08-21

 山崎浩一が、週刊アスキー

文明開化や戦後改革を経ても、なぜ日本にはキリスト教がなかなか広まらなかったのか?
(略)
私はその理由をひとつだけ挙げろと言われれば、迷わずこう答えたい − 「日本にはゴジラがいるからだ」と。

と書いている。
 今回のハリウッド版ゴジラも、高い前評判にも関わらず、「なんだかなあ」という、レビューが多い。とくに、反核、反原発のメッセージ性を期待していると、肩すかしをくらうか、もしくは腹が立つらしい。
 でも、この山崎浩一のコラムを読んで、ゴジラを愛する欧米人の気持ちには、たしかに、多神教への憧れ、あるいは、エキゾチズムがあるだろうと思った。彼ら自身の源流にも、ギリシャ神話の豊かな源泉がある。あるいは、ゲルマンやケルティックの神々がいる。
 私に言わせれば、欧米の文化を豊かにしているのは、むしろ、ギリシャ古典古代であり、キリスト教は、その逆であるように思う。ガザ地区で繰り広げられている、一神教徒どうしの、いつ果てるともしれない殺し合いを見ながら、そう思わないものがいたら、よっぽどどうかしている。
 第二次大戦の過ちについて、日本はドイツに較べて「反省が足りない」といわれることがあるが、少し、視点をずらせば、ドイツの反省が連合国側に受け入れられているのは、そもそもユダヤ人を迫害していたのは、ドイツにかぎったことではなかったからだ。
 ユダヤ人に対する差別のその源流は聖書に発している。ユダヤ人差別は、全キリスト教徒が共有していたので、ドイツの反省はすんなりと受け入れられた。
 シオニズムは、キリスト教側の視点からすれば、ユダヤ人隔離政策の国際版にすぎないともいえるだろう。
 同じ視点を保って、その目を日本に向ければ、「日本は反省が足りない」というその評価の本質は、キリスト教圏の非キリスト教圏文化に対する差別にすぎないと見える。
 「私の知るかぎり、インド・アジア系、あるいはユーラシア系、さらにいえばヨーロッパ・インド・アジア系人種なるものを作り出し、それによって立派な文明と極東『社会』を生み出していく、日本人は除外し、もとの島々に隔離してしだいに衰えさせる、というのが大統領の考えのようである」
 これは、当時の英国公使、ロナルド・キャンベルが、本国に報告した言葉。「立派な文明」とはおそらくキリスト教文化のことだろう。「大統領」はフランクリン・ルーズベルト。彼自身はユダヤ人である。ネタニヤフの対パレスチナの態度を考えると、これもまた興味深い。
 こういうことを大統領が口にしていた時代(もしかしたら今も変わらないかもしれないが)の、「慰安婦問題」を90年代に蒸し返して、2014年のスタンダードで反省しろというのが、朝日新聞が虚偽報道を認めたあと、日本のいわゆる「リベラル」な人たちが展開している論法だが、相手にしない方がよいと思う。