訂正

knockeye2014-08-22

 昨日書いたのは、時代の空気として、キリスト教文化が唯一無二の文明として通る息苦しい時代と、それが相対化されて、多数の文化が共存する明るい時代が、かわるがわる訪れる気がしていて、今がどちらなのか微妙な感じだが、すくなくとも、ジョン・レノンが「ビートルズイエス・キリストより有名だ」と発言した時代は、明るい時代だった、神の支配力が弱まっている時代だったと思っている。
 そういう視点で、今という時代を確かめるひとつの指標として、今回のハリウッド版「GODZILLA」を見ることもできるのではないか、ということを言いたかったわけ。それが、一神教的な時代への抗議なのか、多神教的な時代の前触れなのかは、わからないけれど。
 それがどういうわけか、「慰安婦問題」にとんでってしまったのは、このところ、これにひっかかっているからと、たまに朝早く目が覚めてしまって、出勤前の寝ぼけ眼で書いていたからでもあるが、あんがい、このテーマはどこかで通底しているのかもしれない。もはやどこに実体があるのかわからなくなってしまった「慰安婦問題」にひとつだけたしかな実感があるとすれば、民族問題としての一面であり、「慰安婦」がすでに民族的なイコンと化していることに異論を唱える人はいないだろう。神はこのようにして生まれるにすぎないかもしれない。
 ただ、きのう、書きながら、「あれ?何かおかしいなぁ」とひっかかっていたことがあったんだけど、そのときは気がつかなかったので、24時間遅れで訂正しておきたい。朝日新聞よりだいぶ早いので許していただきたい。
 ‘「慰安婦問題」を90年代に蒸し返して、2014年のスタンダードで反省しろというのが、・・・’
と書いた部分が間違っていた。「蒸し返し」たのではなく捏造したのだった。蒸し返したのなら、すくなくとも事実は事実なので、今の基準で謝れというのにも、議論の余地があるが、そもそも捏造なので、今の基準だろうが、20世紀の基準だろうが、反省も謝罪もないのだった。
 そこのところ、うっかり間違えてしまうのは、ホントに恐ろしいと思うのだけれど、きのうたまたま自動リンクにのって、昔の記事を読んでいた、第一次安倍政権の頃に書いた記事なんだけど、「従軍慰安婦」についてほとんど無意識のレベルで、朝日新聞の捏造記事を信じてるのがわかるわけ。そういうのが、もうウソとわかってても、きのうみたいに寝ぼけて書いているとぽろっと出てくる。
 もういちど、確認しておかなければならない。慰安婦は存在した。しかし、「慰安婦問題」は存在しない。存在するとすれば、それは「朝日新聞問題」の一部として存在するだけだ。
 戦争の悲劇の一部としての、レイプや差別について考えることには意味がある。しかし、捏造記事について考えをめぐらせることには、かけらの意味もない。
 週刊新潮の、ヤン・デンマン(実在の人物らしい)という人の連載にこうあった。

 朝日新聞はデマを根拠に「日本の兵隊は残虐なことをした。謝れ」と言い続けてきた。しかし、報道が事実無根であることが明らかになっても、自分たちは決して謝らない。
 朝日新聞の嘘を見抜き批判してきた人々は、逆に「歴史を歪曲するのか!」と罵倒されてきたのである。また、「朝日新聞に書いてあるから」という理由で、慰安婦の強制連行説を信じ込み、心の傷を負った人が大勢いるのだ。

またこうもあった。

今回の慰安婦に関する過去の報道の撤回も、全面的に間違いを認めて謝罪したわけではない。単に嘘にまみれた自虐報道を続けても儲からなくなってきたので、方針転換しただけだろう。

 いつぞや、森美術館のエレベーターで(かなり長いよ)、韓国人とふたりきりになった話をしたが、考えてみれば、私と彼の間に、何のかかわりもない。しかし、韓国人、日本人、というだけで、なんとなく緊張感が走る、この状況は、ちょっと可笑しいくらいで済んでいるうちはいいが、やはりいびつな状況だろう。
 この状況を作り出したのは誰なのかといえば、旧日本軍だ、という考え方も、いったん正しいようだが、しかし、日本と韓国は60年代に過去の清算を済ませたのである。戦争の罪は消えはしないが、それは歴史として語り継がれるべきものであって、孫の世代がお互いを罵りあうことではないはずだろう。
 慰安婦も差別も残虐行為も存在した。そのことは否定しない。しかし、それについての謝罪も精算もまた歴史的事実なのだ。そこから、日本も韓国も、お互いに貧しかったが、努力して立ち直ったはずではなかったろうか。
 90年代といえば、イラク戦争の時代なのに、そのころになって、過去の歴史から、「慰安婦問題」という幻影が立ち現れたのはなぜなのかについては、未来の歴史家にとって興味深いテーマなのかもしれない。
 ちなみに、朝日新聞は、この記事が載っている週刊新潮の広告掲載を拒否したそうだ。他者については事実を捏造してまで批判するが、自己への批判は受け付けない。それがジャーナリズムと言えるか。