『春画』

knockeye2014-10-07

春画

春画

 日曜のこのあたりは台風を後に控えた大雨で、土曜も出勤で意気阻喪していた私は、どこにもでかけず、食事も宅配ピザですませて、本を読んでいた。
 ピザで思い出したけど、今までひいきにしていたナポリの窯が閉店してしまって、ピザーラに頼んだけど、ちょっと高いし、楽天でネット決済できないのが不便。
 椎名誠の『春画』は、ベッドの中でヤフーの電子書籍をブラウズしていて見つけた。
 2001年の出版で、オブチノミクスが大失敗して、国の借金が膨らみ始めたころ。椎名誠自身も、今からふりかえれば、ミッドライフクライシスまっただなかといっていいのだろうと思う。 
 そういう、なんというか、暗いとまではっきりいえない、もやもやした不安定な感じが、椎名誠の小説としては、日本の小説にとっては本流といえる、本格的な私小説のおもむきになっていて、個人的には、夏目漱石の『道草』を連想した。
 佐藤可士和が、日本社会の弱点は「ハイコンテキスト」なところだと指摘していたが、日本で私小説が本流になってしまったのも、社会がハイコンテキストであるからだといってみることもできるのだろう。
 しかし、椎名誠という作家が主人公である私小説となると、コンテキストとなる社会は、大正の文学青年が無神経に無意識の領域に放り込んでいた日本社会とはずいぶん違っていると気づかされるし、この小説が、私に夏目漱石の『道草』を思い出させたのも、漱石が凡百の私小説家たちよりはるかに、日本社会について意識的であったろうことと関連があるのだろう。
 椎名誠は、作家自身であるのはもちろんだが、作家が長い時間をかけて作り上げてきた、キャラクターであることもまた事実だろう。
 読者がここで対面するのは、そうした椎名誠というキャラクターが向き合っている、ミッドライフクライシスという現在であり、小説として、漱石の『道草』がそうであるように、これが凡百の私小説ではないのは、それが様々な変奏の海のメタファーとして、たくみに描き出されている点だろうと思う。
 とくに、反りの合わない義母が、椎名誠に語る家族の比喩としての海潮流の話は、読んでいて息が詰まりそうになるほど。小説のテンションが最も張り詰めているところなのかもしれない。
 タイトルの「春画」は、第一章のタイトルから無造作にとられているように見えながら、椎名誠自身の出生にまつわる、不分明な部分を暗示していることが後にわかる。
 つまり、作家ははっきりと意識して、椎名誠の家族の物語を、海をメタファーに描こうとしているし、それは成功していると思う。
 何の気なしに読み始めたのだが、よい読書ができた。