ミレー展

knockeye2014-10-18

 府中市美術館と三菱一号館で、別々の企画だが、ともにミレー展が開催されている。
 ジャン・フランソワ・ミレーは、日本が近代化に向けて歩き始めたごく早い段階から紹介され、愛されてきた。西洋の絵画にはじめて接した日本人が、数多ある西洋画の巨匠の中から、あえてミレーを選んだその嗜好に、その当時の日本人が、理想としての近代をどうとらえていたか(絵はつまり理想であるわけだから)が、いまミレーの絵をまとめて観ると、当時の人たちが意識していなかったかもしれないことかもしれないが、よく分かる気がする。
 それまで、ある意味では安定していた封建制社会を捨てて、新しい国を作っていこうとした人たちを感動させるみずみずしさがミレーにはある。たぶん、ミレーの絵がなければ、「近代」が日本に根付くことはなかっただろう。
 私たちの近代はここから出発したし、理想としての近代は、いまだにここにしかないということに、はげしく感動した。すくなくとも、私が絵に感動する原点はここにあるだろうと思う。
 ここに思想があるとか、宗教があると言いたいのではない。むしろ、絶対に言いたくない。もし、ミレーの絵に思想や宗教を観てしまう人は、永遠に絵を観ることができないと思う。そういう人たちは「青」という色を「青」ということばに変換してからでなければ、何も理解できない人たちで、そういう人はたとえばりんごを目の前にして、左右の人に、「これりんごだよな、りんごだよな」と確認して勝ち誇ってる変な人だ。
 言い換えれば、百の言論を重ねても、そこに一枚の絵がなければ、それはたぶん思想ではない。逆に、絵に思想や宗教は要らない。
 そのことは、同じような画題を扱った、ヨーゼフ・イスラエルスや、レルミットの絵と見比べると即効で分かる。コローの銀灰色の田園風景は美しいけれど、そこに描かれているジプシーたちは、点景にすぎず人ではない。
 ミレーの描いている農民はホンモノの農民で、たぶん、現実の農民よりホンモノの農民だろうと思う。
 現実の風景がモネの絵をまねるように、現実を収奪する恐るべき力がミレーの絵にはある。そしてこれは、ほんとに優れた画家だけが持っている力だと思う。