「誤解」についてのまともな議論

knockeye2014-10-20

 ニューズウィーク日本版のWEB版に、冷泉彰彦池田信夫のふたりが「慰安婦問題」について書いているコラムを読み比べると面白い。
 冷泉彰彦のは‘朝日「誤報」で日本が「誤解」されたという誤解’というもの


 池田信夫のは、‘世界に広がった「性奴隷」の誤解をいかに解くか’という、上の冷泉彰彦のコラムに対する反論である。


 「慰安婦問題」について、事実に基づいて、冷静な議論をしているのは、このふたりだけなのかもしれない。他の論者の議論は、多かれ少なかれ、感情的であるか、観念的であるかで、事実を軽視しているように見える。というより、事実を重んじる態度が身についていないように見える。慰安婦の事実については、このふたりの見解はそんなに隔たっていないようだ。
 しかし、今回、面白いと思ったのは、このふたりの議論の争点が、国際社会での日本のパブリックイメージをどう守るか、あるいは、どう形作るか、という点にあって、国際社会での「慰安婦問題」の本質が、事実上、プロパガンダとロビイズムにすぎないということは、いうまでもないことと了解されているかのようだからだ。
 そう考えると、「慰安婦問題」をめぐって、アメリカ議会が行った非難決議が、どうにも不可解なしろものだったと思えてくる。
 そもそも、日本は、1945年に無条件降伏というかたちで太平洋戦争を終えている。つまり、戦争終結の条件をすべて連合国にゆだねている。もし、そのとき、天皇を絞首刑に処せといわれれば、それにも従わざるえなかったはずである。
 わたしたちはそこから、国際社会との関係を築き上げてきた。にもかかわらず、無条件降伏ですべてを連合国にゆだねたにもかかわらず、その戦争についてまた非難決議とは。よく知らないけれど、それは国際慣例上、かなり珍しいことではないのだろうか?。
 無条件降伏の70年後に、また非難されるとすれば、100年後にも200年後にもまた同じことが繰り返されないだろうか?。
 すくなくとも、このアメリカ議会の非難決議が、70年かけて築き上げてきた、日米の信頼関係を取り返しのつかない姿に変容させたのは事実だろう。
 アメリカという国が、敗者に対してとる態度がこのようなものであるということは、それはまた、東西冷戦の敗者であるロシアに対する態度と照らし合わせても、なにかしら納得のいく部分がある。
 東西冷戦での敗北によって、ソ連という国は崩壊した。ロシアはソ連ではない。もはや社会主義国ではない。民主的な選挙が行われている。ウクライナをめぐる問題は、ロシアだけを一方的に責められることとは思えない。
 今、アメリカがロシアに対している態度が、当然の帰結として、中国とロシアを親密にさせている。愚かしいのは、結果として、米ソ冷戦の時代に時計の針を巻き戻してしまっていることだ。
 ふりかえって、米議会の慰安婦をめぐる非難決議とは何かと考えてみると、それは、太平洋戦争の時代、以前にも紹介したけれど、それは、フランクリン・ルーズベルトが、「極東での悪業は、日本人の頭蓋骨が未発達なせいだ」と語っていた時代、日系アメリカ人を収容所に隔離した時代、に時計の針を巻き戻す、悪魔の決議だと思えてくる。
 欧米では、朝日新聞誤報問題を、安倍政権の政治的な圧力ととらえる傾向があるそうだが、それは、視点を私たちの側におけば、二重の意味で偏見に満ちていると言わざるえない。ひとつには、朝日新聞が政権の圧力に屈したという、日本のジャーナリズムに対する侮蔑、もうひとつには、日本の「無辜の大衆」は、そうした言論弾圧に気づきもせず、朝日新聞を非難しているのだろうという、おかどちがいで浅薄な日本人観である。 
 基本的には、ろくに日本語もしゃべれないのに、日本について何かが理解できると考えている態度がすでに傲慢なのである。
 ところが、そうした‘傲慢’を彼らと共有して悦に入るという日本人がいるのもまた事実で、結局のところ、日本で‘リベラル’と呼ばれている人たちの精神的な態度は、事実上これに尽きるというように見える。だから、‘リベラル’は嫌われる。
 たとえば、郵政民営化議論がかまびすしかった当時でも、「郵政民営化はアメリカでも失敗した」とかいう人がいた。こうした無意識のアメリカコンプレックスの最大の問題は、日本の現状について、自分の頭で考えることを放棄した思考停止状態だと思う。
 アメリカ人に「安倍はアジアで最も危険な人物だ」とかいわれると、「えへへ、そうですよね」みたいな感じで相づちを打ってしまって、まともな反論もできないのだ。しかし、実際は、オバマの不見識な外交が世界を混乱に陥れている。私に言わせれば、安倍よりオバマの方がはるかに危険だ。というより、オバマの存在は、すでに‘問題’だと思う。
 「慰安婦問題」は、韓国のナショナリズムにすぎない。つまり、挺対協は韓国の在特会にすぎない。
 国際社会がそうした視点を持ち得ないのは(いいかえれば、国際社会の慰安婦をめぐる誤解は)、事実に即してこれを考えないためだろう。けっきょく、かれらは、自分たちの問題を「慰安婦問題」に投影しているだけなのだろう。