『戦争が遺したもの』

knockeye2014-10-26

戦争が遺したもの

戦争が遺したもの

 今日は腰痛が再発したのででかけなかった。
 小熊英二上野千鶴子を誘って鶴見俊輔と鼎談した『戦争が遺したもの』を読んだ。すごく面白かった。
 何でも図式化される前の一次情報でとらえると、やはり面白い。こういうのをネットのまとめとかで、なんか分かった気になったりするのは、ずぼらなだけでなくやっぱりバカなんだろうな。だって、「わかる」より「面白い」ほうがいいのに、「わかる」気になっただけで済ませて「面白い」を逃すのはばからしい。
 ようするに、世の中を「わかった」側と「わからない」側に分けて、「わかった」側につきたいという、みみっちさ以外、そこには何もないと思う。
 鶴見俊輔は、戦時中、慰安婦についての仕事もしていたし、戦後はアジア女性基金にも関わった。それで、その証言を聞いてみると、また、別の慰安婦像が浮かんでくる。
 それでまあ、今を生きる私として、断言してしまうのだけれど、1990年代に騒がれ出した「慰安婦問題」は、俯瞰してみれば、韓国のナショナリズムの問題にすぎず、それ以上でもそれ以下でもない。「日本海を東海と呼べ」「横尾忠則をNYの美術館から撤去しろ」と同列に叫ばれている「慰安婦問題」が人権問題なんかであるはずがない。そう考える人は、そう考えたいだけなのだ。なぜそう考えたいかといえば、いい子ぶりたいだけだ。何度も言っているけど、でも、それだけだと思う。いい子ぶりたいという願望は、根深いので、それは言動の動機として、けっして二義的ではない。
 逆に、慰安婦なんて存在しないみたいな極端なことをいう人は、これはワルぶりたいんで、これは、いい子ぶりたい願望とほとんど同じだ。置かれた状況が違うだけだと思う。
 つまり、「慰安婦問題」とは、韓国のナショナリズムと、いいこぶりたい願望と、ワルぶりたい願望がからみあった、なにやら母胎回帰的な奇妙なコンプレックスの噴出なんだろうと思う。
 わたしは、元慰安婦に国家賠償しておけば、その方が低コストで省エネだったと思うが、しかし、朝日新聞の吉田証言なんかが真実としてまかり通っていた状況を考えると、とても国家賠償なんてできなかったのも事実だろうと思う。
 だから、現実には、解決済みで突っぱねていくしかないだろう。そもそも日本と韓国は戦争したわけではない。むしろ、韓国は日本の属国として、日本の側に立って戦っていたのだ。日本人の兵士もいたし、韓国人の兵士もいた、韓国人の慰安婦もいたし、日本人の慰安婦もいた。それがどうして、日韓の問題であるかのように語られているのか、といえば、それがとりもなおさず、これが韓国のナショナリズムにすぎないそのことなのだ。
 結局、日本は韓国にとって旧宗主国なのだ。そのことを忘れすぎている。旧植民地の理不尽な要求に対して旧宗主国に何ができるかといえば、黙ってサンドバッグの役割を引き受けていくしかない。
 もちろん、私たち日本人は、日本の近代化過程の軍部の暴走について考えていかなければならない。しかし、それは、韓国の自己憐愍的ファンタジーとは何の関係もない。
 問題は、そうした事情を世界に発信できない、日本の政治家の未熟さなのだ。それができないくらいなら国家賠償の方がましだった。しかし、堂々巡りになるけれど、状況的にはとても国家賠償はできなかった。
 だから、韓国との友好はあきらめるしかないと思う。せめて、これ以上悪化しないようにすることが重要で、その意味では、在特会の幹部が逮捕されたのは、どういう風の吹き回しか知らないけれど、よかったと思う。在特会は存在しても誰も得しない。長く放置しすぎたと思う。