マルタ・アルゲリッチ

knockeye2014-11-02

 昨日は11月1日。土曜と1日が重なったが、しかし、だからといって、観たい映画もないのに出掛けるのもどうかということだし、前みたいに1000円じゃなくて1100円なので、何かそんなでもない気分だが、それでも、1日というと、何となく映画の情報を調べてみたりして、そうでもなければ見逃したかもしれない映画が、観てよかったりするとうれしい。
 bunkamuraのル・シネマで上映中の「マルタ・アルゲリッチ 私こそ、音楽!」は、原題の「bloody daughter」がしめす、マルタ・アルゲリッチの三女、ステファニーが監督したドキュメンタリー。
 実の娘がカメラを回して母親を撮る、この自然な感じは、すごく昔のプライベートなビデオテープまで挿しはさむところなんかもふくめて、砂田麻美監督の「エンディングノート」に似ている(父と母のちがいはあるけれど)。
 しかも、撮られている母親はマルタ・アルゲリッチで、それがあの「エンディングノート」の親父さんみたいに自然にふるまっているわけだから、それだけでもう観る側はつりこまれる。
 70歳のマルタ・アルゲリッチが、生涯をふりかえるみたいな内容に、はからずも、なっているのだけれど(そう、その‘はからずも’という自然な感じがよい)、ピアノに魅入られて、ピアノに捧げた生涯だったんだなということが、説得力を持って伝わってくる。
 たとえば、舞台に出る直前までカメラを回し続けている、なんてことは、娘だから、しかも、ごく幼い頃から護持仏のように演奏旅行に連れ回した娘だからこそ撮れたものだろう。
 マルタ・アルゲリッチに備わっているカリスマ性は、この人がまず自分自身を犠牲にしている、そのことがまわりに伝わるからこそのものだろう。
 次女のアニー・デュトワによれば、こどものころ、母に対する抵抗の言葉は「今日は学校に行く!」だったそうだ。今ではアメリカの大学教授なんだけれど。
 そんなことを珍しがることはないのだけれど、三人の娘はそれぞれ父親が違う。長女リダ・チェンの父親は中国人で、このいきさつは少々込み入っていてわかりにくいが、ともかくこの長女は状況を生き抜いて、今はヴィオラ奏者になっている。次女の父親はフランス人指揮者のシャルル・デュトワ、三女アニーの父親はアメリカ人のピアニスト、スティーヴン・コヴァセヴィッチ。
 マルタ・アルゲリッチは今は結局誰とも結婚生活を営んでいないのだが、スティーヴン・コヴァセヴィッチと会っているところを見ると、仲むつまじく見える。そもそも、マルタ・アルゲリッチが彼に恋したのは、彼が弾くベートーベンのピアノ協奏曲第二番を聴いたときだったそうだ。
 このふたりを観ていて感じるのは、音楽に較べれば、人生の他のことなんてなにほどのものでもない、という、ほぼ無自覚なほど強靱な確信と、そう思っているとは絶対に認めたくない、という、傍目には不思議な‘含羞’めいた感覚で、これは思い過ごしかしれないが、なにか、結婚なんて別にしなくていいなと確認し合うために結婚したかのようにさえ見える。
 マルタ・アルゲリッチがもっとも共感するのはシューマンだと言っていた。私には何のことか分からないが、音楽に詳しい人が「おー」となるかなと思って、一応書いておく。
 アニーを‘bloody daughter’と呼んだのはスティーヴン・コヴァセヴィッチで、その由来について話し合う場面がある。映画の中で話される言葉は、だから、英語だったり、フランス語だったリするが、なぜか、マルタ・アルゲリッチは、母国語であるはずのスペイン語をまったく話さない。このあたりのことも謎めいているが、ちょっと示唆的なエピソードもある。
 誰かに魅了され圧倒される。そういう体験は滅多にできないわけだから、映画館に足を運ぶ価値がある。
 ところで、ル・シネマのネット予約は、以前は「前日の午後七時まで」とかだったけど、今は、かなり直前までできるようになった。やっぱり映画の日は予約しておかないとまずかったのか、そのあと、新宿武蔵野館に「レッドファミリー」という、キム・ギドク製作・脚本・編集という映画を観にいったら、「お立ち見」になっていて断念した。