「リスボンに誘われて」

knockeye2014-12-06

 アミュー厚木に、映画.comシネマができてから、見逃した映画が観られてありがたい。
 「リスボンに誘われて」がやってたので観にいった。これは、いい映画そうだなって匂いがしていたのだが、そういう自分の嗅覚を信じるか信じないか、って思っているうちに見逃す。それに、そういう嗅覚が当てになるかというと、そうでもないのだし。でも、これは観られてよかった。
 70年代のそのころ、日本では大阪万博が決定づけた10年間、米ソ冷戦のまっただなかで、ベトナムでは戦争していたかもしれないけれど、私はどう思っていたか、こどもだったが、それにしても、第二次大戦が終わった後、世界はまっすぐに平和にむかってゆく、それは、石ころを投げた水面がやがて落ち着いていくように、ほぼ自動的に、神の見えざる手で、平和に導かれてゆくと信じていた気がする。
 そのころ、まさか、ポルトガルで、ヨーロッパなのに、そんなばかばかしい独裁政治が行われていたとは、想像だにしなかった。レジスタンスって、70年代なのに?。
 ちょっと話が先走りすぎた。この映画「リスボンに誘われて」は、2004年に刊行され、世界的なベストセラーになった、パスカル・メルシエの小説『リスボンへの夜行列車』を原作としている。映画の原題は、メルシエの小説そのままみたいだった。
 スイスのベルンで、教師を生業としている初老の男が、ひょんなことから一冊の本を手にいれ、リスボンいきの夜行列車に乗り込む羽目になる、それから始まるこの男の非日常への旅に、観客もつきあうことになるのだけれど、この物語のすばらしいところは、主人公を旅へと誘った、つまり、観客をこの旅に誘い出した一冊の本、実は、ある男の私家本だったのだが、それが、70年代のポルトガル激動の歴史を語ったりはせず、あくまでも著者の内省的な省察に終始しており、その言葉を、まるで自分自身の言葉であるかのように思われる主人公が、その言葉に惹かれて、その著者が本を書いた背景を探らずにいられなくなるのだが、その探索の過程で明らかになってくる著者の人間像とその人間関係の背景に、厚い石壁のように、重たくよどんだ空気のように、ポルトガルの歴史が姿を現す、その被写界深度の深い、遠近法の正確な、物語の構造だろう。
 だから、その本の真実をたどることで、現在を生きる主人公の人生も動き始めている。それを観る観客の人生も揺さぶられている。それはよい物語と言えるだろう。
 カーネーション革命といわれる、ポルトガルの70年代に、私たちの国、日本がはぐくんでいたとされる戦後民主主義について、考えてみざるえなくなる。私たちの戦後民主主義は、アメリカの民主主義をなぞったはずだったが、どういうわけでこうも似ても似つかない代物になり果てているのか。
 日本の戦後民主主義を民主主義と称して、それを守ろうと口にする人たちは、この戦後民主主義が、ほんとに民主主義だと心から信じているのだろうか?。私にはそれがまったく理解できない。
 私の目には、戦後民主主義は、たんに官僚主義にすぎないと見える。民主主義に完成はないと思うけれど、すくなくとも、この官僚主義と戦わずに民主主義を名乗ることはできないだろうと思う。
 私が日本の報道を欺瞞だと思うのは、本当に戦わなければならない相手にはへつらいながら、自分たちが民主主義者である言い訳のために、政治家を叩いている。それが結局、この国で「リベラル」と呼ばれている中身のすべてだろう。
 慰安婦問題や吉田証言の誤報で、今、朝日新聞がたたかれているのは、おそらく、こうした欺瞞の構造に、一般市民が気がつき始めているからだと思う。この国で「リベラル」を称して憚らない人たちが、自分たちが知的エリートだと自認できるのは、じつは、こうした欺瞞の構造があってのことなのだろう。彼らは、わたしたち無知な一般大衆を、民主主義へと導いていく使命感に燃えているらしいが、しかし、かれら知的エリートがこの構造に依存する存在であることも、すでに見えてしまっているわたしたちには、彼らが‘民主主義を守れ’という言葉が‘一生懸命お勉強して手に入れた、わたしたちの居場所を奪わないでね’としか聞こえない。
 日米安保に守られた平和の中で、官僚支配のもとで地位が約束された、知的エリートが、民主主義を勝ちとる意志ですら、持ち得るとは思えない。戦後民主主義がかれらにとってどれほど居心地のいいぬるま湯かは想像に難くないけれど。