日本の政治報道そのものが国民の信を失っている

knockeye2014-12-16

 先日も書いたように、この選挙は、解散した時点ですでに安倍晋三の勝ちだった。期日前投票で済ませたが、今回は白票にしようかと思ったほどだった。対立の構図が、選挙の選択肢と一致していないのは明らかだと思えた。
 今回の選挙で、みんなの党が消滅し、民主党は党首が落選したが、もっとも手痛く負けたのはマスコミだったのではないかと思っている。
 まず、解散当初の報道「大義なき解散」というやつだが、大義があったかなかったかしらないけれど、いずれにせよ、国民がその大義とやらを気にかけた様子はなかったと思うがどうだろうか?。
 つぎに、失言報道、いわば、あら探し。例に変わらず、麻生財務大臣にはりついて、それらしいのを見つくろってはみたようだが、これにも国民はほぼ無反応だったように見える。特に、少子高齢化について、「子供を産まないのが問題」といったのが、どういう風に失言なのか、私としては、それを失言だとしたマスコミの論理の方が理解できない。「少子高齢化が問題」、「子供を産まないのが問題」、単に平たく言い方を変えただけじゃないだろうか?。
 つぎには、識者とか文化人とかいわれる人たちの、「民主主義が・・・・、ファシズムが・・・、エヘヘ・・・」という奥歯に物の挟まったたぐいの、煮え切らない政権批判だが、要するに、これら報道の全体が、国民の目にどう映っているか。
 国民の反応を一言で言えば「はい、はい」といったことではないだろうか。このおさだまり感はものすさまじい。もはや、日本の政治報道そのものが国民の信を失っている。
 郵政選挙のときも、民主党政権交代のときも、「脱官僚」という姿勢を政治家が打ち出したとき、国民はそれを熱烈に支持してきた。選挙民の態度は一貫して変わっていない。
 つまり、国民の問題意識は、明治以来の官製民主主義に危機感をうったえている。ところが、日本のマスコミは、彼ら自体が官僚側なので、郵政民営化にはひたすら妨害、政権交代のときは、警察と二人三脚で、小沢一郎を有罪においこもうとしたことを、思い出すべきだろう。このとき、警察の横暴を批判したのは、ネット世論だった。
 今回の選挙は、「大義がない解散」程度の視点でしかとらえられない時点で、その後の報道の内容は見透かされていただろう。日本のマスコミの態度とは、「保守」でも「革新」でも「中道」でもない「保身」なのだ。
 選挙後のどこかのテレビ局のインタビューで、安倍首相がインタビュアーの質問を無視して、イヤホンをはずしてしゃべり続けたという記事をネットで見た。
 わたしは、この安倍首相の態度は、国民感情と一致していると思った。もう、テレビの政治報道なんていうものは、聞くに堪えない。何年か前、日本のマスコミを大前研一が評して「大衆を扇動して高見の見物をしているだけ」みたいに言ったことがある。たぶん、多くの日本人がこの大前研一の見解に同意し始めていると思う。
 慰安婦報道をめぐっての、朝日新聞に対する批判も、そうしたマスコミ全体に対する批判を背景にしているだろう。34年間ウソを放置していた、にもかかわらず、謝罪の必要は感じない、という感覚に、憤りを感じない方が異常だと私は思う。ところが、‘リベラルな文化人’にいわせると、昨今の朝日新聞批判は、異常で‘ファシズムを感じさせるもの’なのだそうだ。
 高見の見物をしている連中が忘れがちなことがある。見物している自分たちもまた見られているということだ。自分たちがどういう風に見られているか、考えてみたらどうだろうか。