テレビの話ふたつ

knockeye2014-12-31

 帰省してる。
 ので、テレビを観る。
 昨日、浜田雅功ので番組で、中川翔子が俳句を詠んでいた。箱根の、たぶん、仙石原のすすきの写真を見て一句というお題なのだけれど、

飼猫の背中のような夕すすき

ていうなかなかの佳句だった。他のメンツがひどすぎたので、その落差で引き立ったにしても、良い句だったと思う。先生を務めている人も手を入れにくそうにしていた。個性が言葉に効いているので、下手にも上手くも手を入れるとかえって、角を矯めて牛を殺す、ことになりかねないが、中川翔子自身が言っていたのは、「夕暮れ時って、自分が大切にしている人とかを思い出す時かなと思うので」ということだったから、だとすると「飼猫」という言葉は少し、言葉足らずかもしれない。
 で、もうすこし言葉を補えないかなと思いつつ見ると、「のような」の4文字が、猫の背中のイメージと夕すすきのイメージを、いわば、図式的に結びつけすぎていて、かえってイメージの力を弱めていることに気づく。
 だから、「飼」と「のような」は要らないと考えて切り捨てて、残った

猫の背中 夕すすき

に、何かを補うとする。自由律俳句なら、このままでもいい。イメージを想起した時間軸通りに並べて

夕すすき 猫の背中

と、これでも良い気がするけど、自由律俳句の問題は、これは自由律俳句ですという、ト書きが必要な分だけ、イメージに雑味が混じることだろうと思う。で、敢えて、五七五の韻律にこだわれば、七音と後ろの五音は

猫の背中や夕すすき

だろう。たとえば

膝に寝る猫の背中や夕すすき

窓にいる猫の背中や夕すすき

うたた寝の猫の背中や夕すすき

でも、これだと、五七五それぞれの意味が切れすぎている気もするので、たとえば

寝る猫の背中や秋の夕すすき

猫の背に似てゆき暮れるすすきの野

 それから、BSだけど、元はっぴいえんどのメンバー(もちろん大瀧詠一を除いて)が集まって、『風街ろまん』を録音した頃のことをいろいろ話していた。
 「風をあつめて」は、細野晴臣松本隆の詩に苦戦して、録音予定の当日まで曲が固まっておらず、スタジオに呼び出した松本隆に「こんな感じでどうかなぁ」と、アコギで弾き始めたそう。松本隆は、「録音当日に悠長な話だなあ」と思ったそうだ。ギターの鈴木茂を呼ばなかったのは、その日に曲ができる確信がなかったため、大瀧詠一を呼ばなかったのは、もうその頃には、細野晴臣大瀧詠一の関係が修復不可能になっていたためだった。
 結局そのまま録音になったが、ボーカルはパートごとに録音して後でつないだので、細野晴臣本人は、今でも通しでは歌えないそう。
 この曲は、ソフィア・コッポラが、映画「ロスト・イン・トランスレーション」(2003)の挿入曲に使ってから、海外の人にも愛される曲になった。確か、プリシラ・アーンも歌っていた。感動的というか、カッコよかったのは、明らかに日本語ネイティヴでない人たちが「風をあつめて」を歌ってYouTubeにアップしている動画をいくつか流した後、松本隆が、「あの頃、細野さんと日本語か英語かって議論してたときに、“じゃあ、聞くけど、日本語で曲作って、世界に通用すると思うか?”って言われたけど」って、これにはさすがに細野晴臣も言葉がないみたいだった。