残虐と卑劣ということ

knockeye2015-01-27

 綿井健陽が監督した「イラク チグリスに浮かぶ平和」という映画を観たことは書いた。10年前、ジョージ・W・ブッシュが始めた‘テロとの戦い’が、じわじわ世界中に広がり始めているような気配だ。
 テロとは何かなのだけれど、あの映画では、ある朝、家族とおはようの挨拶を済ませて洗面所にいた人の娘たちが、食堂に落ちてきた爆弾で死んだ。いちばん幼い娘はまだ息があったので、はみ出していた脳みそを頭に詰め込んで病院に運んだ。その病院で、綿井健陽とその人は出会ったのだ。
 米軍の誤爆でそんな風に家族を奪われた人は、イラクでは、きっと珍しくもないのだろう。米軍はわずかな補償すらしない。対応に出た担当官は‘あなたのような人は多いので対処しきれない’と言っていた。
 そのイラクの人には、まだ被害を免れた娘がいたし、奥さんも、ご両親もいたから、なんとか生き延びようとするのだけれど、一時期は、銃を手に入れていて、‘アメリカ兵を殺してやる’と口にしてもいた。
 でも、もし、家族をすべて失って、仕事もなく、希望もなく、一人残されていたとしたらどうだろうか。そういう人がアメリカ人を殺してやりたい、あるいは、日本人を殺してやりたいと思うことは、人として自然な感情で、残忍とも卑劣とも違うと思うがどうだろうか。
 あの映画の主人公のように、復讐を選ばず、平和を生きようとした人たちの勇気を思ってみるべきだろう。絶え間なく記憶と感情を苛み続ける辛苦に耐える、自制と忍耐が必要であったにちがいないだろう。
 そういう人の心を支える信仰を蔑んだり笑ったりすべきだろうか。難しい。もちろん、そういう蔑みや笑いにも、あの人たちは耐えるしかないだろうけれど。
 イスラム国で起こっているようなことをただ‘テロ’で片付けてしまうことには、なにか違和感を感じるという、それだけのことだけれど。
 週刊現代に連載している佐藤優は、このイスラム国のありようは、かつてのコミンテルンに比較するとわかりやすいだろうと書いていた。共産主義を世界全体に広めようとしたコミンテルンの‘共産主義’の部分を‘イスラム原理主義’に置き換えれば、たしかに、イスラム国の存在を理解しやすくなるが、同時に、問題の構造が大きく、根深く、広範囲で、解決には、長い期間がかかることを覚悟させる視点でもある。共産主義との戦いとは何だったかを考えるとね。