パスキン展

knockeye2015-02-10

 ちょっと書きかけたけど、1日にパナソニックの汐留ミュージアムにパスキン展を観にいった。
 「人は45歳を過ぎてはならない。芸術家であればなおのことだ。」と言って自殺してしまったそうだ。伊東静雄ならば、「若死するほどのものは自分のことしか考えないのだ」と言うかもしれない。わたしは伊東静雄のこの言葉は中原中也のことを言っているのだと思っていたが、ちがうのかもしれない。いずれの意見が正しいによらず、パスキンが濃密に生きたことは確かなようで、自殺せずとも、長くは生きられなかったのではないかと、そんな気がする。
 エコール・ド・パリの画家たち、モディリアーニ、フジタ、キスリング、そして、このパスキンと思い浮かべていくと、それぞれになんとも個性的で魅力的な裸婦の絵を生み出したことかと感嘆せざるえない。なかでも「真珠母色」と呼ばれたパスキンの色は、今回初めて実物を見てその色の繊細さを知った。印刷での再現はほぼ絶望的だと思われる。
 この繊細な色の移ろいを、絵として画面に定着させているのは、確信に満ちた線である。
 「パスキンは、画家である前に素描家であり、そうあり続けた。」(Georges Charensol)。また、イヴァン・ゴルは「鉛筆の一挙ずつにおいて(略)、彼は触診し、生きた生命に触れている」と書いているそうだ。
 本来、現実には存在しない線によって、世界を再創造するデッサンの直観は、パスキンの天才であったように見える。特に裸婦は、パスキンが紙の上をすべらせる鉛筆にくすぐられて、官能の息を吹きこまれているかのように見える。
 「長い髪のエリアーヌ」の女性などは‘Oggi’や‘Domani’のモデルには絶対ならないタイプなのだ。おそらくこの女性を写真に撮ったとしたら、どんなにうまく写したとしても、こんなに美しくはならない。この絵を前にして感じる美しさは、しかも、まるで匂いを放っているような、ぬくもりが伝わるような、直接的に官能に訴えかける美しさなのだが、パスキンの線と色が私たちの官能にアクセスして作用させている魔法なのである。
 パスキンは、女ではなく女の内面を描いているといえるだろう。だが、紙の上に生きた女を現出させてしまうその魔法に、パスキン自身が呪われていたとも言えるかもしれない。
 妻のエルミーヌ(彼女も画家だった)とモデルリュシーとの三角関係も不思議で、エルミーヌとリュシーはお互いに認め合っていたようだ。エルミーヌは身を引こうとしていたが、リュシーは自身の結婚生活を解消しようとはしなかった。フランスの恋愛についての自由な感じは、女性が自立しているからだろうと思う。ただ、この感じを、パスキンが絵に描いたように、映画なり小説なりに再現できるか、想像してみることができるかといわれると、わたしにはなにかとりとめのない気がして、いまひとつ理解できない。 
 ちなみにバナナマンの設楽統がパスキンが好きだと言っていた。あの人もなんやようわからん。
 パスキンの展覧会はこの先いつあるか分からないと思うし、この人の「真珠母色」は印刷ではまったくわからないから、見逃さない方がよいのかも。汐留ミュージアムで3月29日まで。