「イミテーション・ゲーム」

knockeye2015-03-18

 「イミテーション・ゲーム」てふ、ベネディクト・カンバーバッチが、アラン・チューリングを演じた映画を観てきた。
 TOHOシネマズデーの14日に観たかったんだけど、このところ、ばかみたく忙しく、疲れてるんで、そういうことより混んでない方がいいっていう心理になって、それに、マイルがたまってただで観られるつうのもあって、15日に観たけど、結局満席でした。
 週刊現代井筒和幸のレビューも書いていたけれど、暗号解読に関しては、いまいち「どないなってんのやらようわからん」つうのが本音のところ。つまり、推理小説の謎解きみたいなスッキリ感はない。
 井筒和幸は「文系人間にはわからんでええってことか」と書いていたけど、でもさ、たとえば「フェルマーの最終定理」をアンドリュー・ワイルズが解く話なんて、わたくしたぶん、新書で二冊くらい読んでるけど、まったくわからないなりに、面白いわけですよ。グレゴリー・ペレルマンポアンカレ予想を解くとか。
 そういう数学の純粋学問的な面白さには、モルテン・ティルドゥム監督はあんまり興味ないみたいなのが伝わってしまう。そこに踏み込むのに乗り気じゃない感じ。
 いっぽう、主筋はナチスエニグマの暗号解読なわけだから、スパイ映画としても、相当なテーマであるわけで、実際、MI6もでてくるし、マーク・ストロングベネディクト・カンバーバッチといえば「裏切りのサーカス」のときのキャストそのままなんだし、神経すり減らすみたいな緊張感があるかというと、それもないし。
 はたまた、一方では、アラン・チューリングはモーホーだったのだそうで、イギリスではそのころまで同性愛が法律で禁止されていて、アラン・チューリングその人も、それがために、罰せられ自殺に追い込まれてしまう。
 ちょっと話は変わるけど、そのチューリングの自殺が1954年なんで、すると、ビートルズのデビューが1962年だから、同性愛者だったマネージャーのブライアン・エプスタインも、今考えるより、ずっとストレスにさらされる社会環境にいたのかもと思った。ご存じの通り、彼も自殺するんだけれど。
 禁じられた同性愛、ナチスソビエト、イギリスのスパイ合戦、天才数学者の孤独な闘い、というこれだけの要素に、アラン・チューリングの天才ならではの独特な個性(井筒和幸は‘アラン・チューリングは・・・「自分のマグカップが盗まれないように鎖をつけてた」とか「花粉症でガスマスク着けて出勤してた」とか、相当な変人だったらしいで。そういうのを描かんかい!’と。)などなど、なかなかにおいしそうな素材、具材が取りそろっているのに、できた料理がこうなるかなって感じはある。
 ニューズウィークのシネマレビューも取り上げていたが、こう書いている。「アラン・チューリングの生涯を描いたにしてはきれい事過ぎる。」
 いろいろ詰め込みすぎて、ひとつひとつがおざなりになった、ともいえるし、いろんな要素が絡み合ったともいえるけど、私の感想としては、消化不足。
 ただ、アラン・チューリングベネディクト・カンバーバッチが演じるというだけで、観る価値があるとも言えるか。
 まあ、映画はそういうこととして、アラン・チューリングがいなければ、ナチスが勝っていたのかもしれないなっていう、そういう薄ら寒さは感じたな。自由と民主主義が勝つんだ、みたいな単純なことは、最近の中国とか見ていると、苦笑いひとつで消えていく感じだし。
 民主主義とか正義とか、その他、どんな価値観にしても、不動の確定的なものはないんだし、常に上書き去れ、更新されていくものだと、肝に銘じておくべきだと思う。
 なんか最近、「歴史修正主義」とかの言葉を、いろんなことや人を非難するときに使いたがる人がいるんだけど、歴史が修正されるのはあたりまえでしょうに。問題は、その修正がどのような価値観でなされているかですよね。その論点のすり替えは、べつに巧妙でもなんでもないんだが、ただ、声がでかい。
 あのね、中国は21世紀の今にいたって、民主選挙さえ行われていない国なんですよ。その中国が日本を「歴史修正主義」と非難するのは、民主主義という国際社会があまねく共有している価値観では、争えないからなんですよ。
 とっくに終わった戦争の侵略の被害者だからといって、香港の民主選挙を弾圧する免罪符を手にしているわけではない。
 そういう中国の詭弁に過ぎない「歴史修正主義」なんて言葉を、なにか内容のある言葉であるかのように使っている評論家なんてものはろくでもないに決まっているけど、声がでかい方に寄っていくっていう人たちいますからね。