「時代の正体 吹きすさぶ排斥感情」の記事を読んで

knockeye2015-04-02

 「悪とは弱さである」という誰が言ったか知らない言葉を、私が認識したのはまだ学生だった二十代の頃で、それ以来、悪について考えるときの手がかりになっている。善悪の問題を強弱の問題に置き換えて考えるとすごくわかりやすくなる。結局のところ、善きものは強く、悪しきものは弱い。
 3月30日に神奈川新聞に掲載されていた「時代の正体(79)吹きすさぶ排斥感情」を読んで唖然とした。
 多摩川の河川敷で中学一年生の男の子が殺された事件は悲惨だった。だから、この記事もそれについての続報かなと思いながら読み進めたが、あの事件をとっかかりにヘイトデモをやってる連中がいたとは、あまりにも意外だったのが、つまり、そのとき私が受けた衝撃の中身だろうと思う。
 今、これを読んでくださっている奇特な方に尋ねてみたいのは、あの殺人事件の報道に接したとき、あなたは差別感情をかき立てられましたか?、あるいは、すくなくとも、あの事件の報道が、誰かの差別感情を刺激するだろうなと想像しましたか?ということ。
 私は予想だにしなかった。おそらくはほとんどの人もそうだろう。差別主義者とは、ああいう事件を契機に差別の虫が涌いて、デモに繰り出して差別を叫ぶ、結局、そういう思考回路の人たちなんだろう。
 私が日本の歴史をふりかえるときにいちばんイヤな気持ちになるのは、関東大震災のときの朝鮮人虐殺事件なのだが、なぜイヤな気持ちになるかといえば、その心理が理解できないからで、たとえば、阪神淡路大震災のとき、私は震源地のすぐ近くに住んでいたが、そのとき、意気阻喪すること甚だしく、意気地のない自分であったことは悔やまれるけれど、しかし、差別がどうのこうのとか、そんな話はまったく耳にしなかった。
 だから、なおさら、関東大震災の時のそうした事件が薄気味悪く感じられていたのだが、今回のこの記事を読んで、なるほどこういうことなんだと納得がいった。こういう弱い連中が世の中に一定数いるのだ。
 関東大震災のとき、朝鮮人の暴動が起きるぞというデマにのって、家から飛び出していって、誰かを(実際には日本人も多く殺されている)殴りつけずにいられないのは、悪の問題ではなく、はっきりと、弱さの問題だということがわかりやすいと思う。
 差別についてのもうひとつは、他者性を理解できないという側面がある。他者が理解できないのではなく、他者とは何かが理解できない。なので、地震が起こる、殺人事件が起こる、といった単に偶然性にすぎないことを、まったく無関係な価値体系とリンクさせてしまう(天罰とか)。偶然性と他者性の区別がつかないのだ。偶然に降りかかった災難を他人のせいにする、この心理のメカニズムについては、専門家に聞いてみなければ論理的には説明できないが、ごく一般的にはバカと呼ばれているだろう。
 最近目にした、ジェフ・ペゾスの言葉に「優しさは選択」というのがある。たしかに優しさは必須ではないかもしれない。生まれてから死ぬまで「おはよう」の挨拶を一度もせずに生きていくことも可能だろう。だけど結局、そんなあいさつひとつを、する、しない、の小さなことから、自分が選択したことだけが自分を作る。
 大震災の時にも優しさを選択したひとがいたにちがいない。だとしたら、その人と朝鮮人虐殺をした人の違いはずいぶんと大きいと思いませんか?。でもそれはその人の選択だし、その選択以外にその人はない。「虐殺はしたけどホントはいい人」なんてことはない。
時代の正体 79 吹きすさぶ排斥感情