桂文枝 春風亭小朝 東西落語名人会

knockeye2015-04-19

 神奈川県民ホールで、「桂文枝 春風亭小朝 東西落語名人会」を聴いた。
 演目は

 桂三語 「桃太郎」
 春風亭小朝 「男の花道」
 桂三歩 「ないしょ話」
 桂文枝 「喫茶店の片隅で」

 まず、前座の桂三語てふ人の「桃太郎」は、前座というと、場を整えるだけみたいな噺にならざるえないことが多いのに、自分でひとくふう加えていて、なかなか斬新な「桃太郎」になっていたのには感心した。
 それから、桂三歩さんは、わたしは関西を離れて長くなるので、このひとのごく若い頃、タレントとしてテレビに出ていたころのことしか憶えていなかったが、なかなかどうして噺家として自分のスタイルをつかんだらしい、よい仕上がりになっていた。
 タレント桂三枝にではなく、噺家桂三枝について研鑽した跡が見える。べつに大げさではなく、こころざしが人を運ぶという実例を見せられた気がしてうれしい気がした。「ないしょ話」は人物のキャラクターが立っているし、それが三歩自身のキャラクターにも合っていて小品ながら上出来。
 春風亭小朝の「男の花道」を聴いていて、思いがけず涙ぐみそうになった自分に驚いた。ストーリーは実に他愛もない。江戸時代、大阪の人気役者だった某が江戸へ下る道すがら、たまたま同宿した貧乏医者に救われる。それで、この恩には一筆「参れ」としたためてくだされば、何をおいても参上すると約束したその三年後、今度は、医者の方が、時の権力者との酒の席でのいざこざで、某役者を呼ばざるえなくなるが、そのころ役者の方は座の真っ最中、さてどうなるかというようなことである。近年の落語ブームの背景には、江戸時代の価値観の中で、とくにこうした「信義に篤い」という価値観の再評価があるだろうと思う。
 桂文枝の「喫茶店の片隅で」はもっと練って絞れる噺だと思う。
 桂文枝は、ずっと新作にこだわってきた人で、また、そういう創作ができる人なんだけれど、推測にすぎないけれど、たぶん、書いて創ってしまう人なんだと思う。それはかまわないけれど、高座に上げる段階では、書いたものの匂いを消していなければならないと思う。作為が見えるというのとはまたちがって、ライブ感が損なわれるというのか、英語をしゃべれるひとが英語で語るスピーチと、いったん日本語で書いて翻訳したスピーチの差というか、そういう感じがあった。
 それは、今回の場合ではまくらと本題の違いからもわかる。まくらは、昨年、一昨年の小朝との会でのエピソードで、これはすごく面白かった。まくらが面白いということは、その噺家が面白いということなのだが、新作の噺家の場合は本題の面白さまで自分で責任を負わなければならないところがつらいところ。古典落語だと、たとえば、昨日書いた「土橋万歳」とかは面白くないのは百も承知で聴きに行くわけだから。
 「喫茶店の片隅で」は、カフェ全盛のご時世、なんとなく時代がかってきた「喫茶店」に着目したのはよいセンスだと思う。それで登場人物が多くなったのは、あくまで喫茶店という場が主役の、群像劇にしたかったからだろうと思うが、登場人物とエピソードが羅列されすぎて、やはり聞いているこちらとしては分かりづらい。
 古典に似たような群像劇を求めると「長屋の花見」なんかがそれだろうと思うが、あれは、「貧乏長屋の連中が花見にくりだすとどうなるか」という太いプロットがあるので、エピソードが羅列的であっても聞いていてわかりやすい。今回はそのプロットが弱いので長く感じる。
 修正案としては、オチのところのおかまの親子の再会を全体を貫くプロットにしてしまう。その再会の場に喫茶店を貸してくれと頼みにくる常連客と店主の会話で小ネタは処理できると思う。魅力的なおばはんキャラの会話は、その途中で常連客の嫁さんが邪魔に入ることにすればよい。喫茶店で内密な話をしているんだから、客が来て邪魔が入いるくらいのほうが臨場感がある。
 それで、最後に「見てください、これがお父さんの写真です」となったときに、「まあ、いい男やないの・・・あれ?ちょっと待って、これアケミやないの。三年前までここで店持ってたわよ」「エエっ?!」みたいなことでね。オチまで思いつかないけど、たとえば、「アケミやないの、えらいカマトトぶって」「それはおねえさん、かまのととですもん」とか。
 ゲーテが(こういうときにはゲーテを持ち出すにかぎる)『詩と真実』に、「書くことは話すことの情けない代用にすぎない」と書いている。『若きウェルテルの悩み』がバカ売れしたころ、各地を講演旅行してまわった。ゲーテ自身も人前で話すのが好きだったらしく、けっこうドッカンドッカンうけていたらしい。その頃のことを回想した一節だったと思う。
 いずれにせよ、書くことと話すことは別の技術にはちがいないだろう。落語はどこまでも話で、同じ話でも誰かから聞く楽しみと、書いたものを読む楽しみはまた別だからこそ、落語という芸が21世紀の今も成立する。
 落語の映画化はけっこうむずかしくて、うまくいっているのは「幕末太陽傳」くらいだと思う。あれはたぶん日本映画界の職人的なレベルが経済的なバランスの臨界点ぎりぎりまで高くなっていた時代の奇跡だろう。あんなどうということもない話に、品川遊郭のディテールをあそこまで再現するすごさは、映画を作る裏方の技術が、ストーリーとかプロモーションとか映画の表側を完全に凌駕している。逆にいえば、そういうことがすんなりできる技術集団がいなければ、落語は映画化できないのかもしれない。
 だが、映画の落語化はたぶんそんなにむずかしくない。それは浜村純が証明している。彼の映画紹介なんて、もうすこし練るとそのまま落語になる。それは映画を落語で語るとき、落語の方は、かみしもの使い分けでひとりでボケとツッコミをやりつつ、ト書きの部分も語りで処理できるからだ。ただし「バードマン」を落語にできるかというと、それはかなりチャレンジングでしょう。だから、他のスタイルにできない、他のスタイルにすれば消えてしまう表現に価値がある。
 ただ、常にそういう他の分野の刺激は必要だろう。たとえば「土橋万歳」にしても、今では意味が分からなくなっているが、元は、芝居のパロディなのである。だから、元の芝居がポピュラーだったころの観客は、今とは違う受け止め方をしていた。だから古典として生き残っている。今回の「喫茶店の片隅で」にも、テレビのワイドショーネタ、歌謡曲ネタなどが入り込んでいる。これからは、インターネットのSNSネタなんかも取り入れる噺家が出てくるだろう。
 ダウンタウン松本人志が、いま漫才をやらない理由について、漫才というのは、客の前で何回も繰り返しやっているうちにかたちになるので、突然やれといわれてもできないと言っていた。おそらく新作落語も何度も高座にかけていくうちに固まっていくものだろう。今回の「喫茶店の片隅で」も、これからだんだん練れていくのではないかと思う。そういう意味では、落語の人気が復興して、上方落語でいえば繁昌亭のような常打ちの小屋もでき、各地で落語会が人を呼べるようになった状態でようやく新作が生まれる状況が整ったといえるのだろう。桂文枝もそうだが、桂雀三郎笑福亭仁智といった新作の人たちが、もうすこし注目されてもよいように思う。