ルーシー・リー没後20年展

knockeye2015-05-29

 日曜日、ちょっと遠出してみようかという気になり、茨城県陶芸美術館に、ルーシー・リーの展覧会を観に出かけた。
 待つつもりになれば、千葉にも静岡にも巡回するんだけど、どっちもそんなに近くないし、いいじゃない?、初夏で、天気もよくて、みちみちそんなに混みそうなところもないし。
 ルーシー・リーの展覧会は、以前にも観られるチャンスがあったのだけれど、そのころは、陶芸にさほど興味がなくて見逃してしまった。それと、残念なのはルーシー・リーがおそらくもっとも影響を受けたハンス・コパーの展覧会も汐留でやってたのに見逃してしまった。ついこないだな気がするけど、5年前だね。噫々。
 ルーシー・リーの器ってこんな感じ。

 このピンク色とストライプの感じは、IOの虹とおなじで、他の誰がやっても、「ルーシー・リーだね」と言われると思う。
 ルーシー・リーの来歴は、ちょっと不思議というか、感慨深くて、1902年にウィーンの裕福なユダヤ人医師の娘として生まれて、1921年、ウィーン工業美術学校で、ろくろに魅せられた。
 1938年に、ナチスの迫害を逃れてイギリスに渡るのだけれど、その前年のパリ万博に出品したときすでに銀メダルを受賞しているのだから、イギリスに渡ったそのときに陶芸家として受け入れられてもよさそうなものだけれど、そう簡単ではなかったらしい。
 渡英後すぐくらいのときにバーナード・リーチと知り合っているけれど、作風にそんなに影響は見えないと思う。むしろ、バーナード・リーチという存在は、ルーシー・リーにとって、禅の公案のようなものだったのではないか。ロビーにインタビュー動画が流れていたが、その頃の自分の作品にあまり満足していないようで、イギリスに来た当初、ものになったのはボタンだけだと語っていた。
 ルーシー・リーの陶製のボタンは、のちに三宅一生が使ったりもした。この時期、ボタンを数多く手がけたことが、釉薬の実験という意味だけでなく、すごく役に立っているように思う。
 女性がボタンに抱く愛着と同じように、陶器を愛しても良いはずだという思いは、軍需工場で働いた夜、工房でボタンを作りながら、確信になっていったと思う。私的な印象にすぎないが、ルーシー・リーの器を見ていると、柳宗悦浜田庄司バーナード・リーチより、柳宗理を思い出す。それは、戦争体験の受容のあり方が近いせいではないかとも思う。
 1946年に、ルーシー・リーのボタン工場を、これもナチスの迫害を逃れて1939年に渡英していたハンス・コパーが訪ねてくる。このときのことを、「だれか素晴らしい人が訪ねてきたのが分かった」と語っている。ハンス・コパー自身は、このとき陶芸について何も知らず、これからルーシー・リーに陶芸を学ばなければならないのに。ヨハネとイエスではなし、そんなことがありうるだろうか?。ルーシー・リーは、バーナード・リーチという公案に対して、ハンス・コパーという答えを得たのだと思う。
 そのすぐ後らしいが、友人と訪ねたエイヴベリーの博物館で、鳥の骨でかき落とした文様のある青銅器時代の土器を見て、掻き落としの技法のヒントを得た。この時点で、わたしたちが今知っている、ルーシー・リーが誕生したと思うのだけれどどうだろう。
 このまえ、『バーナード・リーチ日本絵日記』という本を紹介したが、あの最初に出てくる1952年のダーティントンの国際陶芸家会議にも参加している。
 このころのイギリスの陶芸を回想すると、なにかしら頼もしい気分になる。バーナード・リーチがいる。中国生まれのイギリス人で、尾形乾山を理想としている。そして、ルーシー・リーがいる。失われたウィーンのモダニズムの空気を身にまとっている。そして、斬新な造形感覚を持ったハンス・コパーがいる。
 さきほどのダーティントン会議にも参加した柳宗悦が朝鮮の光化門を救ったのは有名な話だろう。感慨深いのは、第二次大戦の戦勝国イギリスで、日本とウィーンの、1920年代頃のモダニズム軍国主義者に蹂躙されなければ、こうありえたかもしれないありかたが、なぜか物言わぬ陶芸の世界に実現しているように見えることだ。
 ルーシー・リーは電気窯を使う。温度が正確に管理できるからだそうだ。電気窯に抵抗がないのも、バーナード・リーチとの違いだろう。セント・アイヴスに登窯を築いたバーナード・リーチにとって、火と薪は手放しがたい要素だったはずだ。
 しかし、電気窯を使ったからと言って、陶芸のプリミティブな感動はおそらく変わらない。ルーシー・リーが窯出しをする動画を見たが、窯出しの瞬間は「驚き」だと語っていた。ルーシー・リー自身は自分を陶芸家と名乗って、芸術家と呼ばれたがらなかったようだ。
 それはたぶん陶芸家としての技術に自負があったからだろう。ルーシー・リーは素焼きをしないそうだ。釉薬も含めて、非常に独特な技術で、今再現できるものなのかどうか、おそらく困難だろう。


 茨城県陶芸美術館はさほど遠いとも思っていなかったのだけれど、「駅探」がはじき出した路銀の多寡を見て、遠いんだなこりゃ、と気がついた。なにせ、途中で特急に乗らなきゃならない。「トキワ」っていうヤツで、全席指定なので、移動中に「えきねっと」てふJRのサイトに登録して、そこでキップを予約したんだけど、「乗り換えの5分でキップを受け取れるかな?」と懸念しつつ、「ま、いいや、サイアク、降りる駅の友部で受け取って改札を出ればよいのだし」と、なかなか頭いいこと考えてたんだけど、新宿の特急の乗車ホームに指定席券の券売機を発見して、「ここで買っちゃえ」と思ったのがアホだった。
 キップが出てくるか出てこないかというタイミングで発車ベルが鳴って、とっさに閉まるドアにバッグ挟んだ迷惑な客は私です。親切なおばさんが、券売機に取り残されたキップとカードを手渡してくれたんだけど、ほんとすみません。
 席についてもう一度よく調べたら、「えきねっとチケットレスサービス」というのがあって、それだとチケットが要らない上に100円引きだったそうだ。そっちをデフォルトにしてほしいわ。
 それはさておき、友部という駅でおりて、巡回観光バスみたいのに乗ったんだけど、往きのバスは時刻表に10分遅れた。バスってそんなモンだから、気にしなかったけど、ほとんど交通量のない道なのにどうして遅れたんだろうっていう違和感は残った。
 問題は帰りなんだけど、14:30くらいにバス停について、時刻表見たら次が15:00発なわけ。田舎のバスだからそんなもんだろうし、でも、15:00になっても来ないわけ。でも、そんなもんでしょう、往きが10分遅れてるんだから。
 ところが、私より先に待っていたおばさんのふたり連れが「あのぉ、15:00のバスを待ってますか?。私たち14:00から待ってるんですけどまだ来ないんです。」ていうわけ。つまりその人たちは一便すっぽかされて、もう一便も遅れているっていう。バス停に書いてある電話番号に電話しても話し中だし、わたしはとりあえず美術館に歩いて戻って、タクシーの電話番号をもらった。電話しながら歩いていると、後ろからスタッフが走ってきて、「15:00のバスが出るみたいです」とかいうんだけど、それはもう間に合わないし。タクシーで帰ったけど、ちょっと「あぶない」感じのバスだった。
 それで、実は、そのバスの巡回コースにある、春風萬里荘に寄ってみたかったのだけれど果たせなかった。北大路魯山人の北鎌倉の旧居を移転したところだそうだった。