「野火」

knockeye2015-08-13

 三ノ宮のシネ・リーブル神戸で「野火」を観た。観よう観ようと思いつつ、結局、帰省中になってしまった。「野火」が「のびのび」になってた(これが言いたいがために今日まで引き延ばした、なんてことは天地神明に誓ってない)わけ。
 塚本晋也監督は、「鉄男」、あの「桐島、部活やめるってよ」で、橋本愛神木隆之介が観てた映画で有名だけど、私は、「悪夢探偵2」しか観たことなかった。
 それで、「野火」って、なんか唐突な感じもありつつ、期待持たせる感じでもあり、ただ、戦争映画って、先立つものがなくては、どうしようもない一面がありますので、どうなることかと思ってたのだけど、塚本晋也監督に、ちゃちな映画撮らせるみたいな、そんなけち臭い料簡は誰も持ち合わせなかったみたいで、それはけっこうなことでした。
 でも、クライマックスのシーンは、結局、「人」なのが、すごみでしたね。じゃなきゃ、「マッドマックス」になっちゃう。
 いま、思いついたけど、端から端へ、動いてゆくっていう、その意味では、徒歩とエンジン付きの違いはあるけど、「マッドマックス」と同じだ。「マッドマックス」みたいな狂気を、実地でやらせたわけだ、戦時中の軍部は。それ考えると、そんな連中を、神に祀ってる奴らはクズだっつっても、文句言われる筋合いねぇわ。
 観てて思ったけど、どんなに悲惨であっても、戦場は戦争の現場じゃないわ。あれをやらせてる連中がいるわけで、そいつらがやってるのが戦争なんで、戦争をする、しない、の判断はその段階でしなきゃどうしようもない。
 日本の戦争は、官僚主義の問題だから。今でもそうだけど、民主主義が政治の土壌として未成熟な状況で、中央官僚が主権を僭称した。そのあたり、たぶん、欧米の人たちが理解しにくいところなんだと思う。
 「天皇神聖にして侵すべからず」って、ぶっちゃけ、天皇統帥権を盾にして、軍事費に歯止めかけさせないっていうだけのことで、官僚の予算の分捕り合戦の結末が、あの戦争を引き起こしたって、そんなバカなって、欧米の人も、今の私たちも、確かにそう思うんだけど、ありていを言えば、ほんとにそうなんです。
 国家神道なんて、そんな官僚の作った集権装置にすぎない。国境を超えない宗教なんて、宗教じゃないんです。仏教、儒教キリスト教は、言うまでもなく、国境を越えてますが、神道(国家神道ではない)だって、有史以前に国境を越えて日本にも広がった宗教だった。アジア各地に神道に似た信仰の痕跡があります。その辺は、中沢新一に聞いてください。
 あんな国家神道なんかを宗教だと思える感覚は「無教養」といわれるものに似ているけれど、たぶん、それよりはるかに深刻なものだと思う。いずれにせよ、国家神道なんて概念は、とっくに無効です。天皇という存在は、疑いようもなく「伝統」であるわけだから、19世紀に湧いて出たそんなキッチュにいつまでも紐づけて語られるべきことではないと思う。
 日本の政治状況が滑稽なのは、右も左も、そのあたりをあいまいにしている、というより、そのあたりでは、なぜか、認識を共有しているようで、「天皇国家神道」っていう迷妄を大前提としてかんかんがくがくやってるから、ティッシュに丸めて捨てようかっていう状況なんだと思う。
 話がだいぶ、とんだけど、「野火」はいい映画だった。戦争を描くふりして人間を描いている。あれは戦争ではない。誤解のないように書くけれど、戦争を美化しようとして言っているのではない。その逆。戦争は、あれをやらせている連中の側にあって、そいつらは、あれよりもっと醜い。そう思いませんか?。
 戦場で殺しあっている人たちに向かって、「戦争やめろ」っていってもしょうがない。戦争やらせてる連中に向かって「戦争やめろ」っていっても、奴らは自覚ない。だから、考えなきゃいけないんじゃないかなと思うわけ。