‘huge’国会前のデモ

デモの写真by毎日新聞

 冴えない天気でうだうだ。本を読んで、映画を観て、半日オフラインでいたら、国会議事堂前はデモですごいことになっていたらしい。
 しかしながら、このデモは、反原発、反ヘイトのデモと違って、何が言いたいのか、いまひとつハッキリわからない。「戦争法案反対」と言っているが、何度も言うように「戦争法案」という法案はない。ないものに反対するってのも、おかしな話だが、つまり、「集団的自衛権行使容認を含む安保法案」を「戦争法案」だという仮説を立てて、その「戦争法案」に反対しているのだろう。だが、私にはその仮説はあまり堅牢に見えない。
 ほんの10日前ほどのことだが、招かれて来日していた「積極的平和」の提唱者である、ヨハン・ガルトゥング博士が、講演でこう語ったそうだ。
「日本には平和運動(Movement)がない。あるのは反応(Reaction)だけだ。憲法9条を安眠枕に寝続けている。起きて未来に向けてクリエイティブに何ができるのか右派左派を超えて考えねばならない」。
 先日、紹介した松本人志の「反対と言っているだけで意見じゃない」は、ほぼ同じ意味にとっていいだろう。対案なんてなくていいんだという人もいるが、それこそ、ただ「反対」と言いたいだけならたしかにそれでいい。「戦争反対」に異論はない。「戦争反対」とデモすることにも異論はない。だが、対案がないなら、現に、安全保障についての提案である「集団的自衛権行使容認」が通るしかない。
 対案がないということは、「その法案に反対するが、その法案が成立するについてはやむをえない」と言っているのと同じ事だ。道の真ん中で動かない車はレッカー移動するしかない。高速の車線上にいて、動きたくないと言われても迷惑なだけだ。
 一方で、政府の側が拙劣であるのも、また事実だろう。
 具体的に言えば、先日も書いた通り、米ロの緊迫した関係について、北方領土の問題もあり、また、森喜耦、安倍首相とプーチン大統領との個人的な親好もあるので、もし、「積極的平和」を今後の外交の理念とするなら、なんらかの行動を起こすべきだった。ところが、日本政府の対応は、まったく対米追随にすぎず、プレーヤーの自覚すら感じられなかった。スローガンに足腰がついていってない。
 この懸念については、江田憲司も書いている。彼自身、「30代の若手官僚時代は、安倍首相を凌ぐ?『イケイケドンドン』の『普通の国』論者だった。集団的自衛権などはフルに認め、自衛隊も海外にドンドン出せば良いという考えだった。」そうだが、湾岸戦争当時の政治家の仕事ぶりを目の当たりにして「コペルニクス的転回」をした。
「選挙で外交や安全保障の見識が問われない、いや、それでは票にならない」日本の政治家は「安保、国防についての専門知識に疎く、ましてや、それに携わった経験もない」「こんな日本の政治家のレベルでは、自衛隊を海外に派遣してオペレーションするのは、子供に鉄砲を持たせるようなものだ」と悟った。
 そして、こう書いている。
「安保は、理想を語れば良いというものではない。ましてや、『机上の空論』であってもいけない。仮に理屈や論理では正しくても、現実には、その通りにいかないのも安保である。だからこそ、自衛隊の海外活動には、しっかりとした歯止めをかけなければならないのだ。」
 しかし、「安保、国防についての専門知識に疎」いものに、「しっかりとした歯止め」がかけられるのか?。政治家はアマチュアであってもかまわない。国民が納得するまで専門家とオープンな議論をしてほしい。その議論の部分が民主主義なはずだが、この国では民主主義が信じられていないために、議論を避ける技術が政治だと思われているフシがある。その意味では、強行採決とデモは同じ発想に基づいているろう。
 ピース又吉効果でバカ売れしているはずの、文藝春秋今月号には、「一九六〇年、わが学生運動の挫折」という、立花隆の投稿がある。
 長崎出身という事もあり、原水爆禁止協議会に参加した立花隆は、原水爆の怖ろしさを世界に伝えようと、ロンドンの学生青年核軍縮国際会議に参加すべく日本を後にした。六〇年安保のデモが国会前を埋めるひと月前のことだったそうだ。
 欧州で、自由にものを言い、立場の違いを認めながら、ともに運動する「平和運動」を経験した後、帰国して目にした、党派心まるだし、派閥意識でいさかいが絶えない、日本の学生運動に失望して、運動から離れる。そのとき、ロンドンで親しくしていたカナダの運動家に、「目的の正しさだけでは運動は起こらないし、有効な運動にもならない。」君は夢想家だと手紙を書いて絶縁してしまう。
 ところが、ほぼ半世紀ぶりに彼に会うと、なんと、カナダでは実際に反核を成し遂げていたそうだ。
 今の、日本のデモが六〇年安保と同じ道をたどるのか、それともカナダの核軍縮運動のような成果をあげるのか、予断は許さないが、まず、六〇年安保の時のような党派心、選民意識は、ないだろうか?。自分と意見の違う人と建設的な議論ができているだろうか?。ただ、反対しているだけで、夢想すらないなら、いったいどうやって世界が変わるのか、私には理解できない。
 もうひとつは、反対するのは良いが、その政治的受け皿がない。二大政党の野党は民主党のはずだが、民主党が政権党になったとき、集団的自衛権行使を容認しないと、確約でも取っているのか?。
 今回の大規模なデモは、世界でも大きく報じられているが、ただ、日本が「集団的自衛権行使容認」に踏み込むについて、批判的だった国は多くなかったと記憶しているので、海外のメディアがこれをどう報じるか、注目したい。
 皮肉な見方をすれば、アベノミクスで雇用が改善したからこそ、学生にこんなデモをやる余裕が生まれたとも言えるのかもしれない。炎上なれしたネット民が、現実世界に溢れてきただけかもしれない。
 私には、「集団的自衛権行使容認」がそれほど大問題とは思えないが、いずれにせよ、それは、安全保障全体にとって、従であり、部分であるには違いない。全体のグランドデザインについて、何の議論もせず、部分について先鋭化してゆくのは、滑稽であるし、いつか来た道に見える。
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