『その可能性はすでに考えた』

knockeye2015-10-05

その可能性はすでに考えた (講談社ノベルス)

その可能性はすでに考えた (講談社ノベルス)

 パリのディオニュシウス(聖ドニ)っていうカソリックの聖人がいて、この人は、異教徒に斬られた首を抱えたまま、歩いて説法した奇蹟で知られているそうだ。この小説は、それを下敷きにしている。
 主人公の探偵を、ある女性が訪ねてくる。彼女は、かつて集団自殺したカルト教団の、唯一の生き残りなのだが、それ以来彼女は、自分はそのとき人を殺したのではなかったかという疑念に悩まされている。
 すべての証拠は彼女が犯人ではありえないと語っているが、かといって、彼女が犯人でないとすれば、首なし死体が彼女を運んだと考えなければ辻褄があわない。しかも、彼女自身を混乱させているのは、幼かった彼女を首なし死体が抱えて運んだ、おぼろげな記憶が残っていることだった。
 自分は殺人を犯したのか、それとも、聖ドニのように自分を抱えて運んだ首なし死体があったのか、この疑念を晴らして、真相を知りたい、というのがこの来訪者の依頼。
 わくわくする発端に加えて、さらに展開があらぬ方へ転がっていくのは、この探偵が、ある事情で、「この世に奇蹟が存在する」と証明したいという欲望に取り憑かれていて、探偵と因縁のあるさまざまな挑戦者が現れて、トリックの可能性を提示しようとするが、ふつうなら、トリックをあばこうとする探偵が、そのトリックの可能性をつぶしていくことに知力と情熱を傾ける、ふつうの探偵小説とは逆の構造になっている。
 その上、挑戦者たちは、その状況が奇蹟ではなかった「可能性」を示せばよいだけ。どんなトンデモないトリックでも、物理的に可能でさえあるといえればそれでよい、のに対して、探偵の方は、現実に残された物証から、その可能性を潰していかなくてはならない。
 そこで、小説としては、芥川龍之介の「藪の中」みたいに、ひとつの出来事をもとに、複数の挑戦者たちが組み立てたストーリーが、読者の前に立ち現れては、また、探偵の反証によって崩れていく、そして、その度に事件が立体的になっていく、という構造になっている。
 最後にどうなるかは、もちろんここでは書かないけど、そんな具合に、なかなか複雑な推理合戦が続くためか、登場人物のキャラクターは、なんともアニメチックにデフォルメされている。絶世の美男美女、頑固な老人、天才少年。ところが、読み進むうちに、語られる「奇蹟」の方は、どんどん現実的な人間味を帯びてくる。そのパラドクスが、この小説の魅力だろうと思う。
 いかにも「みなさまおなじみの」探偵みたいな、まるでシリーズものの一巻みたいな書き方をしているけど、どうもそうでもないみたい(知らないだけかも)なので、これも構想のうちなんだろうと思う。なかなかお目にかかれないスーパープレーには違いないと思う。