『流』

knockeye2015-10-10

[asin:B00XVAKEQG:detail]
 東山彰良直木賞受賞作。北方謙三が大絶賛したらしい。
 マーガレット・サッチャーの言葉に「社会などというものはない。個人と、男と女と、家族だけがある」というのがあるけど、遠い極東の島国から見ると、逆に、イギリスほど社会を感じさせる国もない。かえって、その言葉が似つかわしいのは中国だと思えてしまう。中国に、社会などという概念が生まれることがあるのか、彼らは太古の昔から、家族のために生きてきたのではなかったかと思う。
 韓国人と同じく「反日」を掲げていても、中国人にはどこかナショナリズムと無縁な印象を抱いてしまう。韓国人の「反日」がウエットだとすれば、中華民族のそれはドライ。どこまでも打算であり、退路もちゃんと確保してあるといった、したたかさを感じる、その背後には、4000年の歴史を通じて、たび重なる革命を経てきた彼らは、結局、国家などというものを信用しているはずがないし、信じないからこそ、世界中でチャイナタウンを営むことができるのだという思いがある。
 著者の東山彰良は、台湾に出自があり、ここに描かれている1970年代から今に至る、台湾、中国、日本の関係にはリアリティーがある。が、こう書きながら、戦後の日本が、どの程度までリアルでありえたのかと考え込んでしまう。
 「平和」も「民主主義」もまがいものでしかありえなかった戦後の日本の、そうした、まがいものとしてのリアルを見るには、台湾のリアルを照射してみるのが良さそうな予感がするが、この小説を語るには、それはちょっと風呂敷を広げすぎだろう。この小説は、青春小説であり、冒険小説であり、推理小説とさえ言えるのかもしれないけど、読後の感想はどこまでも広がっていく。
 辻原登の『ジャスミン』を思い出した。でも、主人公の成長譚という意味で、あれより、ずっと青春小説だろう。そして、やはり、一番の特徴は、家族というテーマのユニークさだろう。
 家族を描いた小説には、北杜夫の『楡家の人々』とか、江國香織の『抱擁、あるいはライスには塩を』とかの名作が思い浮かぶけど、でも、それは、群像劇だろう。家族が主人公だとしても、描かれているのは、複数の個人だろう。複数の個人の物語が家族の物語を織りなしている。
 しかし、東山彰良の『流』は、それよりもずっと血の意味が濃い。もしかしたら、個人より、家族の血が受け継がれてゆくことの方が、はるかに重要だと、言いたげでさえある。すくなくとも、そうした考えが、個人主義にくらべて、リアルではないと言えるかと、問いたげではあるだろう。『流』というこの小説の題名が、すでに、連綿と受け継がれてゆく血をイメージしているだろう。
 日本人にとっては、それがリアルだと捉えられることは、今まであまりなかったと思う。近代以降、長らく、「家」の概念は、個人に対する抑圧と捉えられてきた。日本人にとっての「家」は、結局のところ、農耕社会の生産性を支える価値観にすぎず、工業社会へ移り変わってゆく過程で、打ち捨てられてゆく概念と信じられてきた。そして、おそらく、日本人にとっては、それはホントだったろうと思う。
 が、そうでない価値観がありうることを、青春小説のかたちで、さりげなく提示されたことがショックだった。というのは、青春小説は、ゲーテ以来、個人主義を前提にしている「はず」だったから。
 だが、本当にショックだったのは、そんなことにショックを受けている自分自身に対してだったかもしれない。個人と家、個人と社会が、常に敵対している必然性はない。誰もそんなことは言ってない。考えてみれば当然だった。自分の考えが、その程度にステレオタイプで幼稚だったかと思うと、それがショックなわけだった。
 まがいものでありつつリアルであることはできる。むしろ、日本の状況では、まがいものでありつつリアルであるしかない。まがいものでないリアルはまがいものでしかないのに、状況に目を向けず、まがいものでないリアルを求めるものは、いつまでも、まがいものでしかないのだろう。花田清輝が『復興期の精神』に書いているように、真円は楕円の特殊な形態にすぎないのだから。