月映、田中恭吉、藤森静雄、恩地孝四郎

knockeye2015-11-01

 町田の国際版画美術館のリニューアルオープン企画では、実は、恩地孝四郎の小特集があった。そこに置いてあったチラシで、東京ステーションギャラリーの「月映(つくはえ)」展を知った。しかも、会期は11月3日までとのことで、翌日曜日に訪ねた。
 「月映」は、田中恭吉、恩地孝四郎、藤森静雄の三人が作っていた、詩と木版画の作品集。1914年(大正3年)9月から1915年(大正4年)11月の間に7号まで刊行された。
 萩原朔太郎の『月に吠える』の表紙は、田中恭吉の絵である。挿絵も田中恭吉と恩地孝四郎が描いている。藤森静雄については知らなかったが、『月に吠える』みたいな有名な詩集を装丁した二人の画家については、当然、もっと研究が進んでいるのだろうと思っていたが、図録を読んでいて驚いたんだけど、今回の展覧会で、「今まで恩地孝四郎の絵だと言われたたけど、実は、藤森静雄のでした」とか、その逆とか、そんなのがいっぱい。
 しかも、「月映」という雑誌が公刊されていたからこそ、曲がりなりにも出版用に描かれた絵が残ったので、遺作展の写真に確認できる、もっと大きなサイズの作品なんかは、行方不明なんだって。
 考えてみれば、今でこそ高名な『月に吠える』だけれど、萩原朔太郎の処女詩集だし、田中恭吉も恩地孝四郎も画学生にすぎなかったのだし、田中恭吉は『月に吠える』出版時にはもう死んでるし、藤森静雄も1943年に、いちばん長生きした恩地孝四郎も、1955年に死んでいる。
 この頃を考えると、人が結核でバタバタ死んでる。田中恭吉が自刻木版画を始めるキッカケを作った香山小鳥なんか22歳で死んでいる。

 香山小鳥を見舞って、この絵を見た田中恭吉は、「ここにもいい絵があった、」「病気してゐてもこんな仕事をしてゐたのだと思ふと耻かしい」と日記に書いているそうだ。
 自刻木版画という表現は、結核で人がバタバタ死んでいく、今よりずっと、人の命が軽かった時代の死生観と、無関係ではないと思うけど、どうだろうか。

父も病み母もやみまたわれも病み夏も鬼百合さくころとなる

かがやきて梅の葉ずえにのびいでつる夏雲よわれも生きなむかなや

 萩原朔太郎から詩集の挿画を依頼されたころもすでに、木版を彫る体力はなく、ペン画ならと断って依頼を受けたそうだ。
 田中恭吉の死から一年たったころ、萩原朔太郎から恩地孝四郎に、改めて詩集装丁の依頼が来る。
「今度の詩集は故田中恭吉氏の追悼記念の意をかねた出版ですから、これは兄にもご承知を願ひます」「今度の出版は私一人の詩集ではなく、故田中氏と大兄と小生との三人の芸術的共同事業でありたい、少なくとも自分私はそう思ってゐる」「私の経済の及びかぎり(貧しいものではあるが)の出費して、美しい詩画集を出したいのです。(ワイルドのサロメの挿画をビアゼレか描いてゐる。私はああした意味の出版物に非常な同感を持って居ます)」

田中恭吉《冬の夕》

藤森静雄《こころのかげ》

田中恭吉《生ふるもの 去るもの》

田中恭吉《冬虫夏草

藤森静雄《よる》