リベラルはいつ死んだか?

knockeye2015-11-21

 リベラルはいつ死んだかを考えていた。
 というのも、例のシールズの関西版の学生が「大阪維新と安倍政権は似てるよね。」だから、反対という記事があって、唖然としてしまったので。
 そもそも、「似てる」だけで否定する、その判断が、反知性的にもほどがあるが、その前に、「安倍政権だから」否定していたのか?。もともとは、「安倍政権の掲げる個々の法案について」反対していたはずではなかったのか?。そうであればこそ議論の余地があるのであって、「安倍政権だから反対」なのであれば、これは単なる党派心にすぎない。この国のいわゆるリベラルと名乗った人たちが昔から繰り返してきた態度と寸分ちがわない。
 結局、この連中が言っている「民主主義」は、「同調圧力」の別名にすぎなかったようだ。何が「似てるよね?」だ。
 今年の正月だったと思うが、久米宏が、BSでなんか喋ってるのを聞いてたら、世間ではリベラルと知られている、ある女性文化人が、「とにかく、自民党のいう事には、何でも反対っていっとけばいいよのよ」と言ったって話をしていて、よくも臆面もなくと思ったのは、これが保守と目されている側から「あいつら自民党の言うことに何でも反対と言ってるだけだ」と揶揄されるならまだしも、リベラルと目されている側から、そのものズバリの発言が飛び出してしまったのでは、いったい、この国のリベラルとは何だったのかと、その底の浅さにがっかりしてしまった。
 ところが、今度のこのシールズの若者の発言も、まったく同じ発想なのには、さすがにもう勘弁してもらいたい。
 ある政治家の活動に反対する、その理由が、「安倍政権に似てるから」という、このバカみたいなロジックが、リベラルを名乗る、マスコミや文化人から、誉めそやされているのであれば、まあ、リベラルは死んだと考えてよいだろう。
 で、最初に戻るが、いつ死んだのだろうか?と考えていた訳。
 私自身が「リベラル」を名乗る人たちに違和感を覚え始めたのはいつだったかと、さかのぼって思い出してみると、たぶん、「格差社会」という言葉が盛んに唱えられ始めた頃からだと思う。わたしは、いまだにこの言葉の意味がわからない。「社会格差」という言葉なら昔からあった。貧富の差がない社会なんてない。しかし、それをひっくり返した「格差社会」とは、どんな社会なのか?。リベラルな人たちの発言によると、「小泉純一郎竹中平蔵のせいで格差社会になった」そうなのだが、それ以前とそれ以後の社会はどう違うのか?。特に違っているようにも感じないが、そもそも、「格差社会」なる概念の正確な定義は確認されているのか?。
 しかし、それだけで、リベラルが死んだと言うつもりはない。似非学者が振り回す、無責任な概念が、民間に流布することは往々にしてある。
 だが、「格差社会」と同時期に「郵政民営化」を攻撃したのはなぜなんだろう?。「格差社会」と「郵政民営化」は、インフルエンザと歯みがき程度の関連性しかないと思うが、少なくとも、「郵政民営化」は、二度までも選挙の争点になり、民意の賛同を得たのだったが、民意の反映である選挙結果について「ポピュリズム」などと非難して、それを軽んずる態度を取ったことは、果たしてリベラルな態度だったろうか?。
 選挙が民主主義の基本であることに異論があるだろうか?。
 このブログにも書いたし、あまりのことに呆れかえったので、よく憶えているが、週刊文春のコラムに、町山智浩が、「郵便は民主主義の基本」と書いた。今は、そのこと自体には何も言わないが、郵便が民主主義の基本だから、選挙で示された国民の選択を無視してよい、ということなら、それを民主主義と言えるだろうか?。
 こう考えてみると、「格差社会」をふりまわして、郵政民営化に反対した人たちの発想は、つまり、「格差のない社会」の実現のためには、一時的に、民主主義を制限してもかまわないという発想だろう。郵政民営化を国民が支持した選挙結果は動かない。にもかかわらず、どういう理屈かはいまだにはっきりしないが、郵政民営化なんかしたら、日本はアメリカのハゲタカに食い尽くされてしまうと主張して、これを頓挫させたわけだから。
 この発想が、何かに似ているということに、気がつかない人はいないだろう。それは、「革命の実現のためには、一時的に民主主義を制限することもやむをえない」という考え方であり、「国民に自由を許したら、アメリカに侵略されてしまう」と怖れていた、旧社会主義国の発想だ。
 この国で、リベラルを名乗ってきた人たちは、結局のところ、東西冷戦下の左派にすぎなかった。である限り、それが滅ぶのは、むしろ、当然だった。
 日本における、右派、左派とは、ブラジルの日系移民たちが、第二次大戦終結後、ふたつに分かれて殺しあった勝ち組と負け組の違いのようなものかもしれない。
 いや、少なくとも、ブラジルの日系移民にとって、祖国の戦争は、アイデンティティーに深く関わる問題だった。日本の右派、左派のいがみあいは、巨人ファンと阪神ファンのやじりあい程度のことだろう。信条ではなく感情に根ざしている。
 私自身は、関西人でもあることだし、阪神ファンと目されても、異議を申し立てるつもりはない。しかし、実を言えば、子供の頃から、野球に大した興味はなく、ルールを把握したのも、高校生になってからだった。そのころ、なんとなく、阪神ファンになったんだが、長ずるに及んで、そういう私と、世間の巨人ファン、阪神ファンは、どうも違うらしいと気がついた。
 今でも、薄気味悪くて、よく憶えている。私が富山に流れ着いた最初の職場で、違う部署の、一面識もない人が、わざわざ訪ねてきた。話が見えてきたときは背筋が寒くなった。その人は、その職場でも有名な巨人ファンだったそうなのだ。それで、「あんた、関西人だそうだけど、阪神ファンじゃないだろうな?」と、わざわざ探りを入れにきたわけだった。「阪神ファンがいかに異常か」を力説したわけだったが、まだ仕事に慣れてない見ず知らずの新入りに向かって、そんな話をしているこの人は、自分が異常だと思わないんだろうかと不思議に思った。
 島田紳助が、「子供の頃から、あいつらは悪だ、憎めと言われ続けて・・・」と半分ギャグで言っていたが、巨人ファンも虎党も、たぶん、子供のころにすり込まれた感情なんだろう。野球チームの好き嫌いなんて、そんなもんで、それでいい。だが、「右翼」とか「リベラル」とか、それと同じで良いもんだろうか?。子供の時から、親とデモに参加したり、靖国に参拝したり、そんなことにすぎないだろう?。思想の違いみたいに言われているが、実態は、そうした地縁、血縁にすぎない。今回の安保関連法案についても、冷静な議論が交わされたか?。血が騒いだというだけのことだろう?。それだからこそ、「似てるよね?」みたいな発想になる。
 そうした縁が希薄な都会にいくほど、無党派層が多くなる。本来、そうした無党派層こそ、むしろ、リベラルに近いのかもしれない。
 第一次安倍政権が退陣した後、麻生太郎がそれまでの選挙結果を蔑ろにする政策を次々に実行し、その批判が、政権交代の大きなうねりになっていった訳だが、先日も書いた通り、鳩山由紀夫は、沖縄の基地移転を公言していたにもかかわらず、それを実行に移さないだけでなく、小沢一郎は、公約していた、高速道路の無料化を選挙後一週間で取り下げた。
 このあたりで「リベラルが死んだ」と断定しても、気が早すぎはしないだろう。リベラルを名乗ってきた人達自身が、自らリベラルの信用を殺した。主権者の目前で「自民党のいう事に、何でも反対するが、いざ自分達が政権を取ると、なにひとつ約束を守れない」醜態を晒した。
 今回の安保関連法案についても、改革を提案しているのは、安倍政権の方だ。シールズの側が主張しているのは、現状維持にすぎない。何も変えるなと言っているにすぎない。その現状も、連綿と続く、自民党政治によるものではないのか?。現実は刻一刻と変化してゆく。何の対案も出さないで、ただ 反対が、現実の社会生活を生きている国民には、何も響かないのは当然だろう。