「氷の花火」

knockeye2015-11-29

 山口小夜子のドキュメンタリー『氷の花火』を、シアター・イメージ・フォーラムで。
 今年の春に、東京都現代美術館であった「未来を着る人」を立ち上げたのは、山口小夜子が、ファッションの第一線を退いた後、いっしょに仕事をしていた、若い世代のアーティストたちだったそうだが、この映画を監督した松本貴子も、そのキャリアのごく早い時期に、山口小夜子と知り合い、親交を深めていた。2007年の彼女の急逝から、いつか、彼女の映画を撮りたいと思っていたそうだが、その思いが具体的に動き始めたのは、「未来を着る人」のために、久しぶりに日の目をみる、山口小夜子の遺品の数々に、接する機会を得たからだった。「玉手箱を開けてしまったような、複雑な気持ち」になったと同時に、茫漠とした思いに「一本の線が引かれた」、「小夜子さんのことを何も知らなかった」。
 不思議なもので、「知っている」と思っているときは茫漠としていて、「知らなかった」と気づいたらハッキリするらしい。この映画は、小夜子という失踪者を追い求める旅のよう、驚いたことに、あまりにも有名なファッションの「ミューズ」、山口小夜子を、実は、誰も知らなかったのではないか。
 「群盲、象を撫でる」の譬えのように、生前の小夜子と関わった、多くのインタビュイーの語る印象や逸話から、だんだん、山口小夜子の姿が立ち現れてくるが、「永遠の小夜子プロジェクト」で、松島花山口小夜子に扮する、その撮影現場に、生前の小夜子を知る人たちの前に、一瞬、小夜子が降りてくる、その山口小夜子の魔法は、映画の魔法でもあるかもしれない。
 山海塾天児牛大によると、山口小夜子は、自分自身を「小夜子さん」と呼ぶことがあったそうだ。もちろん、すべてのインタビューを採録するわけにはいかないが、20年間、山口小夜子とパリで奮闘した山本寛斎山口小夜子を見いだした、イギリスのファッションデザイナー、ザンドラ・ローズ、高校時代の同級生、大塚純子のインタビューは、強い印象を残すだろうと思う。
 なかでも、山口小夜子が「美の先生」と呼んでいた、セルジュ・ルタンスが、
「小夜子には、あれこれ指示をする必要はなかった。『水になれ』と言えば、彼女は水になる。『砂の女になれ』と言えば、それになる。子供の頃には誰にも備わっていた、そんな能力を、彼女は持ち続けていた。小夜子は、大人の顔をした少女だった。」
と語っていたのが、最も印象に残った。
 多くの人が口を揃えるのは、山口小夜子の、プレーヤーとしての能力の高さに加えて、プロとしての覚悟の潔さだ。晩年、彼女を撮影した下村一喜は「当時のファッション界は」当然払うべき敬意を払っていない感じだったと憤慨していた。しかし、現役の現場のプレーヤーが示す、そうした敬意こそ、本物の敬意であるだろう。
 先のセルジュ・ルタンスのメイクは緻密で、0.1ミリ単位の精度を要求する。その休憩時間、山口小夜子に、当時、資生堂のビューティーディレクターをしていた大城喜美子が、のどが渇いただろうと思って、「何か飲む?」と声をかけたとき、目で制されたそうだ。山口小夜子の、あの目で。