Bunkamuraに「リヴァプール国立美術館所蔵 英国の夢 ラファエル前派展」を観にいった。
リヴァプール国立美術館とは、ウォーカー・アート・ギャラリー、レディ・リーヴァー・アート・ギャラリー、サドリー・ハウスなど、いくつかの美術館の総称らしい。ユナイテッド・キングダムのユナイテッド・ミュージアムなわけだ。イギリスのそういった、公私、官民が両立しながら混同しない、個人主義の伝統って、ほんと羨ましい。「愛国心は、悪党の最後のよりどころ」なんて、サミュエル・ジョンソンの言葉が、自然に納得できる。
そういうわけで、ラファエル前派とか、耽美主義とかも、「絵は絵じゃん」っていうことなんですよ。
コンセプチュアル・アートがどこかの国で流行るとすると、それは、絵を描く前に「絵とは何か」を考えなければならないからでしょう。文化の面で先進的である場所ではその必要が無いから。もちろん、コンセプチュアル・アートと銘打って、出てきた作品がよければ評価されるだろうけれど、御託だけ大層で、モノがつまんなきゃ「わかんないっす」って言える強さが、先進国にはある。
後進国では、「わかんない」って言うのが怖いから、つまんないもんにでも一応、なんかかんか気の利いたこと言わなきゃって、へんなプレッシャーで、わさわさもの言ったなかで、なんかちょっとそれらしい感じの発言があると、みんなそれを真似して「けっこうでげすな」みたいな持ち上げ方になる。私の見たところ、それが、つまり、コンセプチュアル・アートだな。
ワタリウム美術館で、Don't follow the windを観た後、村上隆の五百羅漢観たら、そりゃもう圧倒的に村上隆に訴える力がある。コンセプチュアル・アートを否定はしないけれど、アートをコミュニケーションと捉えるなら、コンセプチュアル・アートは、「上から目線」の御託だな。
村上隆の五百羅漢は、日本美術の伝統をコンテキストに捉えつつ、自分の表現にしている。それはやっぱりすごいと思った。
つうわけで、ラファエル前派なんだが、ラファエル前派には、「描きたいことを描きたいように描けって言われたら、私らには描きたい事がありますから。あんたたちにはそれがあるの ?」っていうパンクみたいな自由さを感じる。
大英博物館で春画展をやったとき、好評を博しつつ、物議も醸したようだが、でも、
こういうのとか
こういうの、わたしらには、春画よりエロチックに感じるんだけど。春画の大部分はどこか滑稽。性の営みが滑稽であることに恥じない大らかさがある。
たしかに、春画の衝撃は、その自由さなんだろう。それは、今の日本人にとってももちろん衝撃で、だからこそ観る価値があるのだろう。
春画展は、2月6日から、京都の細見美術館に巡回するらしい。あそこも小さい美術館だから大変かも。
ところで、お正月はいつもBunkamuraギャラリーで絵の特売をやってる。覗いてみたけど、特売と言いつついやはやですな。でも、ヒロ・ヤマガタのリトグラフなんて10万円くらいで売っていた。80年代はすっごい流行ったけどね。