『マチウ書試論 転向論』

knockeye2016-01-23

 「世の中が右傾化している」なんて言い草を見かけるようになって久しい。が、何度か書いてきたように、わたしの実感としては、昔と比べて、特に右傾化したとも思えない。子供の頃から、世の中はこんなものだった。「右傾化」のその根拠は実に曖昧だと思う。しかし、「誰か」にとっては「世の中が右傾化している」と感じるのも事実だとしたら、その「右傾化」には、字義通りの「右傾化」ではない何かがあるわけである。
 それについてわたしなりに考えていた仮説は、米ソ冷戦終結、そして、西側諸国がひとしきり勝利の美酒に酔ったあと、言論人たちがふと気がついたことには、冷戦時代と同じスタンダードで発言していると、何やら冷たい反応が返ってくる、「あれ、なんだこれ?」ってなって、そのあとに続く言葉が「世の中が右傾化している」だろうということだった。たんに、世の中の変化についていけないだけなのを「右傾化」と呼んでいるのだろうと。
 「仮説」といったが、しかし、こんなのは論でも何でもない、わたしの勝手な偏見にすぎない。だから、「世の中が右傾化している」派の人たちが大真面目に何かしているのを、ニヤニヤして見ているしかなかったわけだけれど、吉本隆明の『マチウ書試論・転向論』をKindleで読んで、わたしが漠然と感じているだけだった違和感のような何かを、言語化できる、議論にできる人がいるってことに驚いた。
 特に「転向論」は、その取り扱っている時代が、昭和初年代の日本であるのに、まるで、今のことを言っているかのように読まれる。
 吉本隆明は、転向を「日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間に起こった思想転換をさしている」と書いて「転向論議が、権力への思想的屈服と不服従の問題として行われてきたこと」に疑問を投げかけている。
 「転向の問題は、日本では、その大抵の部分が思想的な節操の問題、いいかえれば、一人の人間が、社会の構造の基底に触れながら、思想をつくりあげてゆく問題とは、水準としてなりえていない。それは、おおくイデオロギー論理の架空性(抽象性ではない)からくる現実条件からの乖離の問題ににしかすぎない。」
 もともとレベル以下の思想ならば、権力に屈しようと、屈せざろうと、それで価値が下がりもしなけりゃ上がりもしない。
 「日本においてかならずしも近代性と封建性とは、対立した条件としてはあらわれず、封建的要素にたすけられて近代性が、過剰近代性としてあらわれたり、近代的条件にたすけられて封建性が「超」封建的な条件としてあらわれる」
 転向、「非転向」のどちらも、そうした日本の現実に向き合っていないのならば、転向は「日本的な封建性の優性に屈したもの」、「非転向」は「日本の封建的劣性との対決を回避したもの」であり、「共通しているのは、日本の社会構造の総体によって対応づけられない思想の悲劇である。」
 「皇室を民族的統一の中心と感ずる社会的感情が勤労者大衆の胸底にある。」などという「目をおおいたくなるような」転向者のことばは、たしかに、今の世の中で言われる「右傾化」の原型だろう。しかし、吉本隆明が問題にしようとしているのは、これにたいする「非転向」の側も「思考自体が、けっして、社会の現実構造と対応させられずに、論理自体のオーチマチズムによって自己完結する」「はじめから現実社会を必要としないので」「自己の論理を保つに都合の良い生活条件さえあれば、はじめから、転向する必要はない。」にすぎない。
 このように吉本隆明が分析した昭和初年代のインテリゲンチャの分裂だが、これがなぜか、シールズと日本会議の間で途方にくれるしかない、現代日本の現実の生活者の感情を代弁してくれているように聞こえてしまう。重要なのは、明治以降の日本社会においては、構造上、対立していない「封建性」と「近代性」を、さも対立していると見立てることで、西欧の文脈につながった気分になりたい、奇妙としか言いようのない言論人の生態が、明治以来、今も変わらず、「日本の近代社会の構造を総体として」捉えられようとしないことだろうと思う。
 ありもしない靖国の聖性を奉る人たちと、ありもしない戦争法案に反対するひとたちの間に取り残されている現実の生活者は、自分たちの現実に必要な思想を持つことができないでいる。そのかぎりにおいて、政治よりSMAPの解散の方がより切実であるという感覚は正しいとも言えるのかもしれない。