『サンダカン八番娼館』

knockeye2016-02-08

新装版 サンダカン八番娼館 (文春文庫)

新装版 サンダカン八番娼館 (文春文庫)

 山崎朋子の『サンダカン八番娼館』は、1972年とかその辺に出版されている、もはや名著と言っていいと思うんだけど、今はkindleでも出ている。
 「からゆきさん」と呼ばれる、南洋の娼館で娼婦として働いていた人たちを描いた、渾身のルポルタージュで、昨日、「小説的」ということを書いたけれど、凡百の小説は色褪せてしまう。この本の「おサキさん」ほど魅力的な人物を小説家が造りだせるか、という問いかけについて、無頓着でいられる小説家は信用したくない気がする。
 わたしが慰安婦の問題に違和感を覚えるのは、この本のことが頭の片隅にあるからで、少なくとも1910年代くらいまで、この本に描かれているような背景があったことを考えながら、慰安婦が生まれてきた過程を考えると、今、一部の人たちが声高に批判しているようなエキセントリックなこととは違うと思う。
 貧困の問題や女性差別の問題に、広い意味での国家責任はないとはいえないし、それについて、常に改善を求めていくべきなのは当然だけれど、挺対協が言っている「国家賠償」はそういう文脈ではないでしょう。彼らの求めている謝罪はナショナリズムそのものでしかない。
 挺対協は韓国の右翼にすぎない。彼らのやっている慰安婦像とかの活動は情報操作にすぎない。それをまっとうな人権団体のように考えている、その暗愚と鈍感が、日本の「リベラル」の限界だろうと思う。そこにとどまっている限り、彼らの行く先には何もない。日本の右翼を批判しながら、韓国の右翼の片棒を担いで、それで何になる?。
 元慰安婦の人たちに保障するのは良いことだと思う。誰が反対した?。アジア女性基金というのを作って保障しようとしたわけなのに、それを妨げたのはむしろ、強硬に「国家賠償」に固執した「リベラル」の側なのだ。しかも、その頃はまだ朝日新聞捏造報道は撤回されていなかった。
 いったい、慰安婦の人たちに対する補償を妨げたのは誰なのか?。総理大臣の訪韓直前にもっともらしいスクープを打つなど、結局、朝日新聞界隈の人たちは、この問題を政争の具に利用しただけではなかったか?。
 そして、それでもなお自分たちは「リベラル」だと信じ込んでいて、自分たちを批判する相手は「右翼」だと切って捨てる。それでいて、現にやっていることは韓国の右翼の片棒担ぎなのである。この人たちの「リベラル」という意識は、「エリート意識」の別名にすぎない。だから、大衆の支持をえられないのだが、そういう現実を目の前にして彼らの口にすることは「世の中が右傾化している」なのだから、呆れ果ててしまう。
 「サンダカン八番娼館」は、1974年に、高橋洋子田中絹代栗原小巻で映画化された頃がブームのピークだったかもしれないけれど、今の視点でもう一度読み直してみる価値のある本だと思う。