「顔のないヒトラーたち」

knockeye2016-02-19

 アミュー厚木の映画館で「顔のないヒトラーたち」。これも観ようと思いつつ見逃していたのでありがたい。「若き詩人」も是非上映してもらいたい。
 1960年代前半のドイツで、アウシュヴィッツナチスが犯した残虐行為を、ドイツ人がドイツの法廷で裁く、アウシュヴィッツ裁判が行われるまでのドイツ法曹界の苦闘を、若い検事を主人公に描いている。
 この裁判によって、アウシュヴィッツの実態が広く知られることになったという結果から遡って私たちはこの映画を観ている。
 今さら、アウシュヴィッツの残虐性を疑う人もなく、したがって、アウシュヴィッツ裁判の意義ももはやゆるぎない。
 この映画に私が求めたいものは、だから、アウシュヴィッツ裁判が、何を裁いたかではなく、何故裁いたかであり、さらには、「どうやって」それが起こり得たかであり、そのプロセスなわけだった。つまり、日本でこれと同じようなことが起こらなかったのは何故か。
 観ていて感じたのは、まず、ナチ党員であったか否かという明確な線引きが可能だったことが挙げられる。日本にはそういう明確な線引きがない。
 もうひとつは、やはり、ドイツは欧州の一員であることが大きい。イギリス、フランス、スイス、と他の欧州の国々と歴史と道徳を共有しているかぎり、その欧州の一員として復帰するためには、こうした通過儀礼はどうしても必要であるという共通認識は、ドイツ国民全般にごく自然に発生すべき心象だったのではないか。
 映画の中にも登場してくるが、アメリカは特に、アウシュヴィッツ裁判のようなことは望んでいなかったそうだ。米ソ冷戦の時代であり、政治の文脈が第二次大戦中と変わっていた。他の映画の話になるが、「ヒトラー暗殺、13分の誤算」で、ヒトラー暗殺を企てたゲオルク・エルザーは、今でこそ英雄であるが、東西冷戦時代には、「共産党のスパイ」と思われていたらしい。
 だから、アウシュヴィッツ裁判は、東西冷戦の文脈ではなく、EU統合の文脈で行われたと見るべきだろう。ヨーロッパの伝統が働かせるバランサーのようなものが当然あるだろうと私は思う。
 これに対して日本を取り巻く環境は、その意味では不幸だった。中国は今、この時点でさえ民主主義国家ですらないのである。ロシアは当時ソ連であり、東西冷戦の一方の雄であった。韓国は軍事独裁国で、今ではみんな忘れているかしれないが、韓国より北朝鮮の方が民主的だと思われていた。だからこそよど号乗っ取り犯は、北朝鮮に亡命したのだ。
 つまり、私たちは謝罪や反省の地政学的な文脈を持っていなかった。軍国主義の過ちを軍事独裁政権に謝罪するとか、言論弾圧の過ちを文化大革命まっさかりの中国に謝罪するなどということが、いかにグロテスクなことかはいうまでもないはずだ。
 結局、私たちの再建は、アメリカ主導のものにならざるをえなかったのであり、それはそれで正しかったと私は思っている。(さて、これを書きながらうっかり唇の端に冷笑を浮かべてしまったので、その意味を書き残しておきたいが、こういう状況で「右」だ「左」だという対立がいかに滑稽かわからないだろうか?。アメリカ主導の再建の意味するものは、一方では「憲法9条」であり、一方では「天皇制存続」なのだ。「右」も「左」もアメリカ的なプラグマティズムにすぎないものを、政治的対立であるかのように振舞っているかぎり、現実の政治意識が高まることはないだろうと思う。)
 次々と明らかになってゆくアウシュヴィッツの実態に、まるで熱病にうなされるように正義の鉈を振るい続ける主人公だったが、主人公の父親も、恋人の父親もナチ党員であったことがわかり、また、アウシュヴィッツの残虐行為を弾劾するきっかけを作ったジャーナリストも元ナチ党員だったと告白され、正義のあり方を見失いそうになる。そんなとき、かつてアウシュヴィッツに収容されていたユダヤ人の友人が病に倒れ、彼に頼まれてジャーナリストとアウシュヴィッツを訪ねることになる。そこで亡くなった彼の娘さんたちのために祈りを捧げるためである。
 そこにいたことのあるジャーナリストが主人公に尋ねる。
「何が見える?」
アウシュヴィッツ
「違う。ただの牧草地だ。アウシュヴィッツは記憶の中にしかない。」
 重要なのは真実を記憶に留めておくことなのである。
 重要なのは、真実であって、ストーリーではない。意味や解釈ではない。何が正義かに迷うことがあっても、真実は明らかにされるべきであるという、法に仕える者としての務め。そして、人としては祈り。主人公の成長がアウシュヴィッツ訪問と重なっているシナリオは優れている。
 正義は移ろいやすい。何が正義かの判断を、真実である事実に優先してはならないはずである。朝日新聞慰安婦報道は、虚偽によって正義を導こうとした。そのやり方は「日本よい国、エライ国」の戦中のプロパガンダと何も変わらない。
 朝日新聞はジャーナリズムとプロパガンダの境界を乗り越えてしまったのだ。真実に奉仕すべきなのに、真実を正義の下位に置く教条主義に陥ってしまい、そのことで自らの存在そのものも毀損してしまった。
 こういう言い方をすると、また批判もあるだろうが、慰安婦問題のような、あるかなきかの問題をさも重要な政治課題であるかのように報道していること自体、欧州に比べてアジアの政治意識が低レベルであることをよく示している。
 日本政府も、韓国政府も、韓国の愛国団体も、ジャーナリズムも、てんで勝手な自前の正義を振りかざすだけで、真実を明らかにしようとはしなかったのである。