「Mr.ホームズ 名探偵最後の事件」

knockeye2016-03-19

 「Mr.ホームズ 名探偵最後の事件」という映画で、老いシャーロック・ホームズを演じたイアン・マッケランが素晴らしかったので、すぐに原作を買って読んでみた。kindle化してくれていると、こういうことができるのがありがたい、もちろん、原作が短い場合だけれども。
 で、必然的に、この文章には、世にいう「ネタバレ」が含まれるかもしれないので、この映画を観るつもりでいる人は、この先を読まないほうが良いだろう。
 小説と主要な登場人物こそ重なっているものの、映画ではかなり多くの変更がある。最大の変更は(つまり、この文章での最大のネタバレは)、映画では、ロジャー少年が死なないことだろう。これはたぶん映画ではロジャー少年の比重が重くなっているので、殺すに忍びなかったのだろう。小説でのロジャー少年もけっして軽い存在ではないが、他のふたつのエピソード、特に、映画で真田広之が演じた日本人「ウメザキ」が、小説ではもう少し丁寧に描かれている。そのためロジャー少年の死も、もちろん残酷だけれど、なにしろ、シャーロック・ホームズの遍歴を考えれば、小説ではむしろ、宿命的だと感じられる。しかし、この映画の描き方だと、ロジャー少年の死はコントラストがきつすぎると判断されたのだろう。
 小説では、「最後の事件」というアン・ケラー婦人の事件と、ウメザキとの日本の旅と、ロジャー少年とのエピソードがバランスよく配置されて、老ホームズの孤独を引き立てているが、映画はむしろ老ホームズの再生にフォーカスしている。
 そのため、ウメザキとの旅が急ぎ足になるのは残念だけれど、小説と映画の違いは、映画の場合は、現に肉体を持った役者が演じるので、端折られた部分を役者の存在感が埋めることができる。真田広之はそういう存在感を発揮できる役者だと思う。ウメザキの詳しいエピソードを知りたい人は小説をどうぞ。
 同じような意味で、映画の醍醐味を味わえる変更は、イアン・マッケランの老ホームズは、小説よりかなり記憶力が衰えていて、アン・ケラー婦人の事件を記憶の底から呼び起こさなければならない。映画の時間軸は、老ホームズがその記憶をたどる旅に沿っている。そのイアン・マッケランが素晴らしい。映画と原作がほとんど全く違うにもかかわらず、映画も小説同様素晴らしいと思えるのは、小説の文章の歩調に、イアン・マッケランの芝居の歩調が堂々と取って代わっているからである。
 観客は、老ホームズの深い過去へと潜行する、長いダイビングにつきあい、そしてふたたび海面に顔を出した時に、ドーバーの白い崖を目にする、そんな感じだ。そこでロジャー少年が死んでいる必要はない。それは無益な殺生というものだ。わたしたちはダイビングの一番深いところで、アン・ケラー婦人の不可解な死に触れてきたからである。
 かなり年代が開いているにもかかわらず、イアン・マッケランがひとりで二つの時代のホームズを演じる意味はそのへんにあるだろう。時間を垂直に潜っていき戻ってくる、そんな感じなのである。
 真田広之のインタビューも読んだが、イアン・マッケランに「現場で会っていた時は、おまえはまさにウメザキそのもののような人間だと思っていた。でも、あれは全部演じていたんだね。おまえで良かったよ」と言われたそうだ。
 老ホームズは、ドーバーの白い崖が見える海辺の家で暮らしている。ストーンヘンジを思い出させる、石をめぐるエピソードは小説にもあるが、映画での日本の旅でのそれは、小説にはなかったように思う。そこは小説のほうが自然だが、イギリスのキリスト教以前の、ケルティックな自然崇拝の文化と、日本の古い自然観はたしかに似ていると思うことがある。