「放浪の画家 ピロスマニ」

knockeye2016-03-31

 「ピロスマニ」てふ映画は、グルジア改めジョージアで1969年に制作され、日本では1978年にロシア語吹き替え版が公開されたそうだが、どういういきさつか知らないけれど、今年、37年ぶりに、グルジア語オリジナル版をデジタル・リマスターしての再上映だそうだ。
 ニコ・ピロスマニは、1862年に生まれ1918年に没した、グルジア改めジョージアの国民的画家だそうだ。絵は、もしパリで描いていれば、ナイーヴ派と呼ばれただろう。正規の教育を受けていないけれど、オリジナルなスタイルを持っている。

 ピカソが「グルジアには私の絵は必要ない。なぜなら、ピロスマニがいるからだ」と言ったそうだが、ピカソてふ人はいろんな人をほめている。クレー、バルテュス魯山人、探せばほかにもいっぱい出てくるだろう。ひとつには、ピカソ自身の好奇心が旺盛だったためだろうが、一方で、画家であると同じくらい資質が批評家でもあったために、良い画家が不当に扱われている場合は、言葉を惜しまなかった。ピロスマニのばあいはそうかも。失意の晩年を過ごした。
 ピロスマニは酒場の壁を飾る絵や看板を描きながら日銭を稼ぐ暮らしだった。そんなふうに絵が暮らしの身近にあった時代は、日本の近世にもたしかにあったはずだが、それがどんな風だったかを、思い描くのはどうにもむずかしい。たぶん、写真が身近じゃなかった時代を思い描くのが難しいのだと思う。私たちのイメージは今ほとんどすべて写真である。だから、写真がなかった時代の人々のイメージがどんな風だったかイメージするのは、それ自体が循環論めいている。
 ゲオルギー・シェンゲラーヤという監督はきっと絵がよく分かっている人だろう。これぞ様式という、余計なものをそぎ落とした見事な演出。まるで、ピロスマニの絵が動き出したかのようだ。もしかしたら、ほんとに元ネタとなるピロスマニの絵があって、ピロスマニの絵に詳しい人には、シーンごとに元ネタを指摘できるのかもしれない。
 たとえば、この絵は

このシーンに反映されている。

こんな具合に、この映画全体が、ピロスマニの絵に対するよきオマージュになっているのかもしれない。映画は舞台と違って、絵が動いているということに改めて気づかせてくれる。ときには、俳優が静止画のモデルであるかのように微動だにしないシーンもある。絵を止めたり動かしたりの緩急が自在で、これは見事だと思った。
 もうひとつ興味深いのは、1969年に19世紀末を描いた映画を今観るという入れ子構造だ。1969年はたとえば「イージー・ライダー」が封切りされた年だ。19世紀のピロスマニを見ると同時に、1969年のグルジアも見ることになる。
 たぶんその意味で、ファッションとインテリアに魅了された。演出と同じく、ミニマリズムに統一されている。
 たとえば、この床、壁、椅子、すごいおしゃれだなと思う。

それに、このジャケットとコートはネットで売ってたら衝動買いすると思う。ユニクロで展開してくれないかな、ユニクロ×ピロスマニ。

 今のデザイナーが目指しているのは、このころの時代なのかもしれない。芸術と生活がもっと統合されていた時代。
 「絵描き」「踊り子」「芸人」とかが、パン屋とか鍛冶屋とか靴屋とかといっしょに暮していた町、考えてみればそれは普通の町なんだけれど、今はなぜか、それが不思議なことのように思いなされないだろうか。
 この映画で描かれるピロスマニの町はそんな「絵描き」がいたにふさわしい。その町はパリから遠く離れている。パリが街ではなく、概念になるほど遠く。考えてみれば、先のピカソの言葉は、その隔たりについての言葉でもある。インターネットが鈍磨させてしまった、隔たりの感覚は、いつも自然に想像力をくれた。今は、その隔たりについて意識的になる必要があるのかもしれない。