ボッティチェリ

knockeye2016-04-15

 鎌倉に行った翌日曜日は、上野に黒田清輝とカラヴァッジョを観に出かけた。
 これは、先週予定していたのだけれど、うすら寒い天気でうっかり垂れ込めて過ごしてしまったのだが、やっぱり、ポジティブでなきゃいけないというのは、せっかく東京国立博物館の庭が公開されていたのに、桜の盛りはちょうど先週末だったようで、今週はあらかた散ってしまって、葉桜になり掛けていた。

 まあ、花の盛りだろうというのも、上野を敬遠した理由のひとつではあった。ただでさえ混雑する上野の美術館に花見客まで押し寄せたらと思うと、出かける気が失せようというものだ。
 先週とはうってかわって春らしい陽気だった。用心してダウンベストを羽織っていたのがちょっと暑苦しかった。
 黒田清輝とカラヴァッジョの前に、これはもうお正月になるのだけれど、東京都美術館で開催されていたボッティチェリ展について先にふれておきたい。

 

 《書物の聖母》。ボッティチェリについて考えると、いつも言葉を失う。《プリマベーラ》や、《受胎告知》の、みずみずしい絵を描いた人が、どういうわけで、晩年、サヴォナローラのような偏狭な狂信者にこころを奪われてしまったのかが、解せない。
 シニョーリア広場でサヴォナローラが火あぶりにされた時、ボッティチェリはどう思ったのだろうか。
 今から振り返れば、サヴォナローラは、メディチ家バブル崩壊に乗じて、利いた風なことを吹聴してまわった煽動家にすぎない。メディチ家の没落は、その後、何度も歴史が経験する資本主義のメカニズムにすぎない。確かに、バブルを永遠に続くと信じることも迷妄だろうが、個人的には、バブル崩壊に事寄せて、神の裁き云々、それ見たことかと焚き付けて回るやつの方がキライである。
 サヴォナローラは、「虚栄の焼却」などと称して、メディチ家の保護した芸術作品を、これ見よがしに「火刑」に処したわけだが、その同じ場所で彼自身が火刑に死すことになったについては、私なんかは、ざまあみろと、胸のすく思いなんだが、ボッティチェリは、それでも、生涯(といってもそれから10年の時しか残されていなかったが)、サヴォナローラにこだわり続けたようなのだ。
 「ホントか?」と、ボッティチェリの残した絵の前に立つと、信じられない気持ちになる。
 バブルが崩壊した、それ見たことか、神の裁きだ、誰でも言えるだろっ、そんなこと。それで、絵とか集めて焼いて、いい気分になるやつが尊敬できるか?。わかんないですけどね、と、問いかけてしまう。

 岡本太郎が「しかし、美に絶望し退屈している者こそほんとうの芸術家なんだけれど。」と書いていた。ボッティチェリを捉えたのも、そんな芸術家の倦怠ではなかったのか、美に倦み疲れて、崇高さを希求したのではなかったかと思いたいのだけれど。

 これは、ボッティチェリの師匠だった、フィリッポ・リッピの《ピエタ》。イエスの胴体その他に変なところがあるのは、後年の修復のせいらしい。フィリッポ・リッピは、もとは修道士だった。そう思うせいかもしれないが、この悲嘆の表現には、信仰を感じないだろうか。わたしはボッティチェリには、それを感じない。だから不思議なのだけれど。


 フィリッポ・リッピは、ルクレツィアという尼僧と駆け落ちした。この《幼子を礼拝する聖母》は、その子のフィリッピーノ・リッピの絵で、この人はボッティチェリに学んだようだ。ルクレツィアは、フィリッピーノを産んだ後、修道院に戻ったそうなので、この絵には、そういったストーリーを読んでしまう。
 けれども、ボッティチェリの絵は、そういうサイドストーリーを読取らせない。ボッティチェリの絵にボッティチェリを探すのは止めたほうがいい。花神は花を咲かせて立ち去る。花を愛でる春には誰も花神を思ったりしないものだろう。