「スポットライト 世紀のスクープ」

knockeye2016-05-02

 「スポットライト」は実話なので、映画としてどうこう言うことと、その映画が描いている事実についてどうこう言うことが、混乱するのは避けられないかも。
 例えば、レイチェル・マクアダムスは、「誰よりも狙われた男」の方がチャーミングだった、とか、マーク・ラファロは、「フォックス・キャッチャー」の時の、レスラーらしい身のこなしがまだ残っている、みたいなことを書くと、不謹慎狩りが気になる。
 スポットライトは、ボストン・グローブ紙が誇る調査報道欄の名前であるらしい。その報道チームが、‘ボストンだけで’、約80人のカトリックの聖職者が、信者の子供達に性的虐待を繰り返していた事実を、取材し報道したその過程を、その事実のおぞましさを考えると、驚くほど抑えた調子で描いている。
 抑えた調子っていうと曖昧だが、言い換えると、「こいつが黒幕か!」みたいのが出てこない。観客としては、途中で何度も、「あ、こいつだろ?、分かっちゃった」って思うんだけど、最後まで、全部ハズれる。誰かを血祭りにあげて「ああ、さっぱりした」っていう「2ちゃんねる的な展開」にならない。悪が滅びて善が栄えました、めでたしめでたし、って気持ちで映画館を後にできない。
 リチャード・サイプっていう研究家が証言するように、聖職者の性的虐待は、ほとんど「現象」だといっていいほど普遍的なのだそうだ。全世界の約5%のカトリック司祭が、そうした性的虐待「現象」に陥る。
 非キリスト教として、キリスト教を傍観していると、性の抑圧がひどくいびつな形で現れていると思うことがある。
 たとえば、ユディトとホロフェルネス。

 未亡人ユディトは、街を救うために、美貌を武器に敵将の褥に忍び込み、寝首を掻く。
 また、聖アガタは、神に操を立てて、異教徒との婚姻を拒み、乳房を切り取られるが、信仰の奇跡で乳房には傷ひとつつかない。

 16世紀の聖テレジアは、自叙伝にこう書いている。
「私は黄金の槍を手にする天使の姿を見た。穂先が燃えているように見えるその槍は私の胸元を狙っており、次の瞬間槍が私の身体を貫き通したかのようだった。天使が槍を引き抜いた、あるいは引き抜いたかのように感じられたときに、私は神の大いなる愛による激しい炎に包まれた。私の苦痛はこの上もなく、その場にうずくまってうめき声を上げるほどだった。この苦痛は耐えがたかったが、それ以上に甘美感のほうが勝っており、止めて欲しいとは思わなかった。私の魂はまさしく神そのもので満たされていたからである。感じている苦痛は肉体的なものではなく精神的なものだった。愛情にあふれた愛撫はとても心地よく、そのときの私の魂はまさしく神とともにあった。」
聖テレジアの法悦と呼ばれている。

 ここにセックスの隠喩を見ない人は、純粋でも、敬虔でもなく、性的に未熟だと思う。この映画にも、自分のやったことはレイプではないと言い張る聖職者が出てくるけど、映画でジミー・ルブランが演じている被害者で、重要な証言者のひとり、パトリック・マクソーリーは、記事の出た2年後に、麻薬の過量摂取で死んでいる。
 状況を生き抜くことは誰にとっても困難なことであるにちがいないが、少なくとも彼にとっては、宗教が、障害になりこそすれ、助けにならなかったのはまちがいない。
 カトリックに限らず、宗教にかぎらす、何ものかに自己を委ねて、帰属意識にすがって生きている人たちが、私にはおぞましく見える。右でも左でも、男でも女でも、白でも黒でも、それは同じことだと思う。未熟な人とは、1人になれない人のことを言うのだろう。
 トム・マッカーシー監督作品では「扉をたたく人」っていう、イスラム移民を扱った映画を観たことがあった。あの延長線上にこの映画があるのだと思うと、この冷静な語り口の重みがよく分かる。こうでなければ、問題提起にならなかっただろう。「ウソでもいいじゃん、うちらの方が正しいもん」っていう態度を「偏向」と呼ぶのであって、もし、そういう態度が力を持つとしても、それは、報道の力というのとは違うと思う。
 ちなみに、2015年のアカデミー作品賞と脚本賞を獲得した。
 ボストンは、独特の陰影がある街なんでしょう。ジョニー・デップが、アイリッシュ・マフィアを演じた「ブラック・スキャンダル」も、ボストンを舞台にした実話だったし。