ピカソ、天才の秘密

knockeye2016-05-11

 あべのハルカス美術館で、「ピカソ、天才の秘密」っていう展覧会がやってる。初期のピカソキュビズムに至るまでの作品を集めている。

 これなんかまるでロートレックだし、

これなんかは、パステルというせいもあって、まるでドガみたいだ。
 ピカソの神童伝説てのがあって、画家で美術教師だった父、ホセ・ルイス・ブラスコが、わが子ピカソの絵を見て、絵筆を捨ててしまったとか。
 また、箱根彫刻の森美術館でも紹介されていたピカソの言葉なんだが、「子供らしいデッサンを描いたことがない・・・12才の頃には、ラファエロのように、絵を描いていた」というのがある。ただ、ジョン・リチャードソンという人は、神童ピカソの絵を「ラファエロになぞらえるのはおこがましい出来ばえ」と評しているそうだが、ピカソが「ラファエロのように」と言う意味はわかる。
 余談だが、北大路魯山人が、ピカソの絵を見た途端(本人を目の前にして)嫌悪感を示したことは、以前に書いたが、これはふたりの出自からも考えてみてもよいかもしれない。
 長ずるまで、自身が鴨川神社に連なる古い家柄だと知らずに育った魯山人と、画家の子に生まれて、神童として育ったピカソは、自分が属している文化に対する屈折が違う。おそらく、正反対だった。ピカソの「子供らしいデッサンを描いたことがない」コンプレックスは、実は、そのころの美術が直面していた問題と似ていたのかもしれない。岡本太郎は、おそらくピカソを尊敬しているが、岡本太郎もまた漫画家を父に、作家を母に持つ「神童」だった。なので、といっていいかどうかわからないが、岡本太郎が日本文化に向かう時、それは縄文だったり、沖縄だったりする。
 キュビズムについて、私なりに理解できるようになったのは、ホックニーのフォトコラージュを観てからだ。

 視点を複数にすると、写真でもキュビズムになる。逆に言えば、ホックニーの再解釈がないと、わたしにはピカソキュビズムはわからなかった。ピカソキュビズムは「ラファエロのような」絵との格闘だったんだろうと思う。

たとえば、こういう絵は、楽しいけれど、こういうのは、どちらかというとブラックのキュビズムであるように思う。ピカソキュビズムというと、私はこういうのではなく、

こういうのを思い浮かべる。《裸婦》、「はあ?」っていう、わざと汚く描いたような。
 図録によると、《アヴィニョンの娘たち》が、キュビズムの出発点であるかどうか、議論があるそうだ。そのいちいちの議論は刺激的で蒙を啓かれるのだが、ただ、《アヴィニョンの娘たち》は、キュビズムの出発点かどうかはともかく、ピカソにとっての、ひとつの点であることは間違いないと思う。あれは、何といっても、ブラックとは全く違う。
 ピカソは後に、《アヴィニョンの娘たち》について、アンドレ・マルローにこう語っている。
「あれはぼくの最初の悪魔祓いの絵だった」。
 ピカソは生涯にわたって具象画家だった。ピカソの関心の中心は、対象をどう捉えるかにあったと思う。それに対して、ブラックの興味は表現にあり、絵は構成的で音楽的だと思う。
 だから、ピカソは、キュビズムをドカドカ通り過ぎていってしまう。ピカソはいつも、対象と自分の間にある「悪魔」を祓おうとしている。
 さっきの言葉をもうすこし長く引用しておこう。ピカソがアフリカ彫刻に、決定的に出会ったのは、1907年6月パリのトロカデロ民族誌博物館だったそうだ。
 「トロカデロに行ったとき、胸がむかついた。まるで蚤の市だ。それにあの匂い。ぼくしかいなかった。帰ろうと思った。しかしその場を立ち去れなかった。そして残った。長いあいだ。これが非常に重要なものだとわかったんだ。そのときぼくになにか起こったんだと思わないか?〔・・・・・・〕
アヴィニョンの娘たち』は、あの日心に浮かんだのに違いないが、形のせいなんかじゃ全然ない。あれはぼくの最初の悪魔祓いの絵だったからなんだ。そうなんだ!」