「ガルム・ウォーズ」

knockeye2016-05-21

 押井守の書くセリフを字幕にするなんて不可能という鈴木敏夫の判断で吹き替えのみの公開らしい。
 押井守のセリフは、まるで、神道の「祝詞」みたいなもんだなと思って、英語のセリフだと、どんな具合に受け取られるんだろうと、つまり、どんな具合にニュアンスが変わったり、抜け落ちたりするんだろうと考えたりした。
 映画としては、もっと長い叙事詩の序章のような味わいで、ほんとはここから物語が始まらなければならないはずのところで、終わった感がある。
 誰かが言ったことを憶えているだけのような気もするが、押井守の作品は、世界観の提示に大部分が費やされて、ドラマは、その世界で人物がただただ無力であると証明するだけのように思う。
 神の名前が、しかも、それだけが言葉ですらないことにも、決定的な無力感を感ずる。押井作品にはよく登場する、おそらくは、彼自身の愛犬がモデル(もしかしたら愛犬そのもの)の犬が登場するが、無条件にシンパシーを感じさせる存在は彼だけという点も、押井作品を支配する無力感の特徴でもある。
 つまり、人間に対する絶望が、いまさら、信仰へと向かうのは、許しがたい欺瞞として忌避される。神は人間が生み出したについて、生活感情的にさえ、少なくとも押井守には、かけらの疑問を挟む余地はないのだろう。そういう状況を、一般的には絶望と呼ぶが、おそらく、彼自身にしてみれば、絶望というほどのこともない、シンプルファクトにすぎないだろう。神は、ネットや映画やお金とおなじく、人間が作り出したメディアの、最古のものというにすぎない。
 今回の「ガルム・ウォーズ」は、そういう神と人間の関係を反転して描いている。
 押井守のこうした無力感が、日米関係という特殊な構造を持つ日本を出ても、一定以上の説得力を持っているだろうか?。おそらくそうだろう。ユダヤ教徒イスラム教徒のいつ果てるともしれない殺戮の連鎖、偏狭なナショナリストの、キリスト教に名を借りた排外主義などを目の当たりにしつつ、世界で多くの人が無力感を味わっているだろう。
 たとえば、「スポットライト」のようなカトリックの腐敗を告発する映画が、ハリウッドがユダヤ的であることを割り引いても、アカデミー賞を受賞したりすることも、そうしたムードを示しているかもしれない。
 欺瞞より絶望を選ぶことが、押井守の潔さだが、絶望より欺瞞を選ぶのが、多数派の態度なのかもしれない。絶望は何も生まないが、欺瞞は欺瞞を生み続ける。どちらがマシかは分からないが、どちらが愚劣かはわかる気が。