「教授のおかしな妄想殺人」

knockeye2016-06-11

 ウディ・アレンの前作「マジック・イン・ムーンライト」を「ウディ・アレンのものとしては少し落ちる」と、小林信彦が評していた。小林信彦の頭の中には映画のビッグデータが保存されているから、そう言われるともう何も言えない。
 今回の「教授のおかしな妄想殺人」も、ヒロインは前回と同じく、エマ・ストーン。おそらく、ハリウッドで一二を争う目の大きさ、ああいうのを「明眸」というのだろう。
 主役は、ホアキン・フェニックスだが、「インヒアレント・ヴァイス」のジャンキー探偵じゃなく、哲学の教授だから、役づくりで胴廻りに体脂肪を蓄えたようだ。
 「マジック・イン・ムーンライト」のテーマは手品と超能力だったが、今回は哲学。ウディ・アレンは、だいたい毎年1作の割合で映画を作っている。その度ごとにテーマが変わる。なんか、話好きのおじいちゃんが、夏休みごとに訪ねてくる孫のために話を用意してくれている感じ。
 ただ、そうしたストーリーテリングのスタイルとして、ナレーションの問題はあると思った。今回の映画から、独白の部分をすべて取っ払ったとして、何か不都合があるのだろうか。ナレーションがない方がスリリングじゃなかったかって思うんだけど、どうでしょう。ちょっと音声の情報が前に出過ぎている気がした。
 「妄想殺人」教授の書斎にあった、ドストエフスキーの「罪と罰」のページに、「ハンナ・アーレント、悪の凡庸」と書き込みがあったりするあたりになると、哲学ネタとストーリーの絡み合いがウディ・アレンの仕掛けだと気付いちゃうわけ。
 プロットは、「罪と罰」のパロディとも言える。人生を喪失した哲学教授がラスコーリニコフと重なる瞬間はエキサイティングだし、「すごいな、ウディ・アレン!」って思う。だから余計にナレーションが邪魔に思えたんだけど。
 「え?まさかこいつ・・・」って部分を声で語ってしまうから緊張感が殺がれる。逆に言えば、軽妙にはなるのかもしれない。とにかく、その部分だけは観終わった後までひっかかってた。
 今、カバンの中に『ロラン・バルト 言語を愛し恐れ続けた批評家』っていう新書を持ち歩いている。すでに通読してはいるのだけれど、ちょっとした時に取り出して拾い読みしている。著者の石川美子って人が、ロラン・バルトを徹底的に咀嚼しつくしているのが、素人にもよくわかる。ユングにとっての河合隼雄のような。
 ロラン・バルトは小説を書こうと苦労しているところで、不慮の事故で死んでしまう。もし事故死しなければ、彼は小説が書けたのか、書けなかったのか、何しろ、創作の秘密は、それを持たないものにとっては、天分のように思えるのだが、ただ、晩年に優れた小説を残した批評家として、吉田健一の例もある。
 なので、「まぁいいじゃないの?」と思うことにしている。ナレーションも味のうちだと思っとけば。何しろ、この話を書いたのも、撮ったのもウディ・アレンなんだし。いったい他の誰が「罪と罰」をコメディーに書ける?。
 もうひとつは、教授をめぐるふたりの女性のリアクションの落差。それを考えると、ラストは真逆であった可能性もある。価値観の対立は、教授とヒロインの間ではなく、このふたりの女性の間にむしろ鮮明なので、三角関係と「妄想殺人」を絡めればもっと笑えたろうけれど、それだと、哲学のテーマからはだいぶ離れる。
 今のラストの方が、「殺人」についての、形而上的な哲学と実存主義的な哲学の答えの違いについて、考えさせる。