生きるアート 折元立身

knockeye2016-06-15

 パフォーミング・アートは、おしなべてくだらない。
 もともと「ハプニング」とか「イベント」とかに源流を持つ、そういう社会的アクションが、なんらかの価値を持ちながら、しかし、まだ名づけられない「何か」でしかなかった時代には、それをかりそめに「アート」と名付けてみることには、何かワクワクするものがあったし、そのこと自体に、反アートの意識が潜在的に含まれていた。
 ところが、時代が降って、アートと認知されたパフォーミング・アートは、かえって、一枚の絵、一体の彫刻より「高級な」アートの顔をしていないだろうか?。それは、本来、反アートであるものが、アートと「認知」されるために、アカデミズムの権威を必要とするからで、いわば、アカデミズムに魂を売った証拠だろう。
 印象派の登場以来、アートシーンの外側に閉め出された感のアカデミズムに、そもそも反アートであったパフォーミング・アートが、アートの辺縁をぐるりと回って出会う。腹を空かせた悪魔に、頭に花の咲いた子供が出会った。こうして、反アートでありながらアカデミックという、まさに、グロテスクな代物が、アートの辺縁にいつまでも生存し続ける構造が生まれた。
 絵や彫刻や、歌やダンス、または映画やアニメなどは、作品自身の力で鑑賞者を納得させることができるが、パフォーミング・アートにそうした力があるだろうか?。いうまでもなく、ある。しかし、オノ・ヨーコが言ったように「アートは人生に必要な遊び」なのである。上に書いたような居心地のよい辺土からは何も生まれないだろう。
 川崎市市民ミュージアムで、「生きるアート 折元立身」展がやってるので観てきた。
 折元立身について詳しいことは知らないが、ナム・ジュン・パイクのアシスタントとかしてたそうです。作品としては「パン人間」とかいう、顔にパンを巻きつけて徘徊するっていうのがあるけど、それがどうした?って感じです。
 しかし、父親が亡くなり、母親がボケ始めたために介護生活をしなければならなくなり、オムツを替えたり、食事をさせたりの介護生活を「アート・ママ」というパフォーミング・アートとして発表し始めます。
 介護してるだけなんですけど、アートだって言い張るわけです。それは俄然、面白い。その発展形として、2014年、ポルトガルで行った「500人のおばあさんの食事」つうのがあるんですけど、それは、グルーヴさえ感じます。
 常設展には、ナム・ジュン・パイクの《ジョン・ケージに捧ぐ》なんてビデオ作品があったりして、それもそれで楽しめます。