メアリー・カサット

knockeye2016-08-10

 もう一ヶ月以上前になるけれど、横浜美術館で、「メアリー・カサット展」を観た。
 印象派の女流画家というと、ベルト・モリゾが有名だろう。エドゥアール・マネの描いた黒衣の美女で、何かとスキャンダラスな興味で見てしまうのは、《オランピア》や《草上の昼食》を描いたマネの愛弟子と目されているからだろう。
 マネは都会的な風俗画家だった。女の裸を描いて女神だ聖女だという欺瞞につきあわない一方で、カフェで働く女の一瞬の倦怠を写しとった。
 その意味で、もし、ジャポニズムをいうなら、マネは歌麿に似ている。《笛を吹く少年》のパンツがフラットになるのは、マネの感性が、ダ・ヴインチの衣の襞よりもそうしたフラットさを選ぶからだろう。
 マネとドガの交友はよく知られているが、私はドガの周辺には女っ気がないのかと思っていた。バレリーナたちの絵や、入浴する裸婦に見られる窃視願望から、何かしらの屈折を感じていた。
 しかし、このメアリー・カサットというアメリカ女性と生涯にわたる交友があり、図録によると、時には「周囲がハラハラとするほどの仲違いもした」というのを聞いて救われる気がした。ドガがメアリー・カサットに送った手紙は、彼女がすべて焼却してしまったそうなので、どういう関係であったのかよくわからないそうだが、ドガは彼女の絵を高く評価していて、彼女の《髪を整える少女》を晩年までアトリエに飾っていたそうだ。
 なぜドガと付き合えるのか?と訊かれて(というのは、ドガもマネに負けず劣らず気難しい人だったらしいので)、メアリー・カサットは「それは私が自立しているからです」と答えたそうだ。メアリーの家は裕福だったそうだが、親の意向に背いて画家の道を選ぶという時に「じゃ、自立しろ」と父に言われたそうなのだ。“feed yourself”というわけだろうか、アメリカ人らしい。
 メアリー・カサットの絵には、自立した女性の誇らしさを何よりも強く感じる。今展覧会のフックであるらしい《桟敷席にて》の凜としたたたずまいも、もちろんそうなのだけれど、彼女が収集していた喜多川歌麿

こういう絵も、また違うふうに見えてくる。ここには生き生きとした日常があり、それを描く自由がある。ジャポニズムが19世紀のパリにもたらした感動が今の私たちにもやはり新鮮に感じるとしたら皮肉なことなのかもしれない。
 今回、私がむしろ感服したのは、彼女の版画だった。


これは、絵葉書がシリーズでセット販売されていた。
 横浜では9月11日まで。そのあと、京都国立近代美術館に巡回する。
 ほんとは、横浜そごうで開かれていた「国吉康雄展」と併せてみると、パリのアメリカ人の感じが面白かった。