デトロイト美術館展

knockeye2016-10-22

 「デトロイト美術館展」と聞くと、それだけでなにかミスマッチな面白さを感じるのはたぶん私だけではないだろう。デトロイトのイメージは、デトロイト・メタル・シティー、デトロイト・テクノ、「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」とか「イット・フォローズ」が舞台に選んだ「deserted」なイメージが強い。個人的には、展覧会のBGMにジャック・ホワイトのギターがかかっていなかったのは物足りない気がした。
 でも、ちょっと思うのは、どこかの街が平気な顔をして、荒廃しているって、一方では「公正さ」であるかもしれない。「自由」が、アメリカの豊かさの原資であるならば、公正なジャッジは受け入れなければならない。胸を張って、落ちぶれていればいい。
 上野の森美術館の受付で「デトロイト美術館展でお間違いないですか?」と訊かれた。みんなにそう聞いているみたい。というのも、同じ上野公園にある東京都美術館で「ゴッホゴーギャン展」を開催しているから。あっちにもそのうちいくつもりだけれど、ゴッホの集客力を知っているので、体調が万全でないと行く気にならない。デトロイトのすさんだ感じのほうが気楽でいいわけ。
 こないだのナムジュン・パイクもそうだったけど、日本の展覧会も写真が撮れるところが増えてきた。このデトロイト美術館展も、「平日ならば」の条件付きだが、撮影OKだそうだ。でも、平日は無理。休出させられないように、必死で残業している。
 誰かが、時限爆弾と思って警察に通報したら、それは虫の音だったという、秋の深まりを感じさせる今日この頃、なんとなく来し方を振り返る気分になる。ことし印象深かった展覧会は、なんといっても、国立新美術館で観たルノワールだった。特に、その絶筆の≪浴女たち≫を見て、ようやくルノワールの裸婦が分かった。主観に過ぎないけれど。
 プルーストが「ルノワールの女たち」といったのは、たぶん、晩年の裸婦ではなく

こういういい女のことであるはずだ。しかし、ルノワールはイタリアを旅したあと、

こういう裸婦を描き始めてパトロンたちを戸惑わせる。
 まるでデッサンが狂ったかのような絵だが、ピカソ

こういうのを描いても、ピカソが下手になったとはだれも言わないのに、ルノワールがあれを始めた時、理解した人はきっと多くなかったのではないか。ルノワールのコレクターとして知られるスターリング・クラークですら、ルノワール晩年の裸婦を「ソーセージのような色」「空気で膨らんだ手足」などと評して、一切買っていなかった。私自身も、ただのデブ専かと。
 しかし、印象派展の第一回から裸婦に取り組んできたルノワールにとって、絵を、うつろいゆく光と色の印象から、現にそこにある肉体へと、どうやって救い出していくかは、重要なテーマだっただろう。
 モネにとっての絵は、最初から最後まで、移ろいゆく一瞬の色だった。なにしろ、いま臨終を迎えた恋人を前に、「もはや動かぬ顔に死が押しつけた連続した色合い」を写し取ろうと、狂ったようにスケッチブックに筆を振るい続ける人なのである。そうした≪死の床のカミーユ≫は名画だと思う。
 だが、ルノワールはそれとは違う。ルノワールの色彩も素晴らしいが、彼自身が絵に求めたのは、量感だったと思う。ピカソのテーブルの遠近法と、ルノワールの裸婦の太ももの遠近法は、ほとんど同じに見えるのだけれど、どうだろうか?。晩年、ルノワールと親交のあったマティスが、ルノワールの絶筆≪浴女たち≫を「過去に描かれたどの作品よりも美しい彼の最高傑作」と評したのは、友情からくるセンチメンタリズムでは、絶対にないと思う。