鈴木其一

knockeye2016-11-23

 サントリー美術館で開かれていた鈴木其一展は前後期とも観た。
 鈴木其一は酒井抱一の弟子。酒井抱一は、江戸琳派創始者とされている。尾形光琳の百回忌を行い、『光琳百図』を上梓するなど、さまざまなかたちで尾形光琳の画業を江戸に紹介した。たぶん俵屋宗達を始祖とするはずの琳派が、尾形光琳の一字をとって琳派と呼ばれるのは、酒井抱一尾形光琳を顕彰したためもあるのではないか。琳派と言いつつ、彼らは師匠と弟子という関係にはない。ちなみに、尾形乾山を「再発見」したのも酒井抱一だそうである。
 尾形光琳酒井抱一、鈴木其一は、先達の俵屋宗達がオリジナルを描いた《風神雷神図屏風》をそれぞれに模写している。これら4つの《風神雷神図》が一堂に会す展覧会も過去に観たことがある。
 俵屋宗達尾形光琳の《風神雷神図屏風》の、素人でも分かる違いは、雷神の目線。宗達の雷神は下界を見おろしているが、光琳のは風神を見ている。
 もう一点は、宗達のは、風神と雷神の頭を結ぶ線を引くとほぼ水平だが、光琳のは雷神がやや下がっている。このわずかな構図の狂いがひきおこす効果は劇的で、見比べる価値がある。
 まず、宗達の構図では中央にどっしりとられている余白が、光琳のでは、雷神が少し下がったために消えてしまう。その余白と目線が生み出すダイナミズムで、宗達風神雷神は天空のはるかかなたで対峙しあっているように見えるのに、光琳風神雷神は、曲がり角で出くわした、みたいに見えてしまう。
 雷神の目線から考えても、宗達風神雷神の足下に大胆に空けた余白の効果を、光琳は侮ったかに見える。
 宗達の場合、突然の雷雨に逃げ惑う町衆のざわめきさえ、その余白にこめられているといったらいいすぎなんだろうか。光琳のは、風神雷神を天空の高みから、地べたに引き摺り下ろしてしまっている。
 光琳のマスターピースといえば、何と言っても《紅白梅図屏風》だが、あれは、宗達の《風神雷神図屏風》に対する返歌だと言われることもある。宗達のダイナミックな空間表現に対して、光琳は平面的な装飾性をもって答えたのだろうか。岡本太郎がパリで偶然《紅白梅図屏風》を目にして感動に震えたそうである。
 酒井抱一は、宗達風神雷神図を知らなかっただろうと言われている。光琳のものを模写しているので当然だが、ここでもまた、宗達の持っていたダイナミックな揚力はない。
 しかし、知られているように、抱一は、光琳の《風神雷神図屏風》の裏に、《夏秋草図》を描いた。雷雨に打たれる夏草と、風に翻弄される秋の草を描いて、風神雷神図に対峙させた。
 ここで面白いのは、光琳が、資質的にか意図的にか、持ち得なかった宗達のダイナミズムを、宗達を知らない抱一が、むしろ、獲得してしまっているように見えることだ。天空に上昇する宗達に対して、抱一は足下に下降するのだけれど。
 《夏秋草図屏風》があったればこそ、抱一は江戸琳派と呼ばれうるのだろう。もし、あの屏風がなければ江戸琳派も存在しなかった気がするのだけれど。
 鈴木其一の風神雷神図は、屏風ですらない、襖絵では、宗達の持っていた高揚感は望みようがない。風神雷神のポーズは、もはや記号化しているかも。
 鈴木其一の頃になると、もう明治も近い。安土桃山時代俵屋宗達が表現した縦方向の空間感覚が、だんだんと引き下ろされ、最後に横方向になるのは興味深い。
 安土桃山時代の空間感覚を日本画がだんだん失っていったと言ってしまえば、それは本当だろうか?。傍証としては、江戸時代は建築にあまり収穫がない時代だったということがあげられる。小堀遠州がかかわったとされる(つまりそれは安土桃山の最後期といえる)修学院離宮以来、明治に入るまで特筆すべき建築は現れなかったようなのだ。
 日本画のコレクターとしても知られるピーター・F・ドラッカーも、特に好んでいるのは室町時代水墨画だそうだ。西洋画に比べて「絵の中に引き込まれる」というその空間デザインを、過密都市江戸で暮らす画家たちはだんだん失っていったのではないかと仮に考えてみたくなる、風神雷神図の変遷なのである。
 鈴木其一の絵では、千葉市美術館所蔵の《芒野図屏風》と、出光美術館所蔵の《桜・楓図屏風》が好き。根津美術館の《夏秋渓流図屏風》は好きと言っていいかどうか判断に迷う。インパクトがすごいのは確かだ。
 鈴木其一は、ありとあらゆる技法をものした人だった。そのため、かえって「自由に呪われる」といった印象を受けもする。この人を見ていると、明治の日本画が西洋画の影響を受けて、しばらく自分を見失ったようになるのもしかたなかったかと思えてくる。
 西洋との出会いという外因だけでなく、日本画の内側からも、やるべきことはやりつくして、何か新しい展開を待ち受ける機運が熟しかけていたように思える。