「聖の青春」

knockeye2016-11-26

 松山ケンイチが肉体改造をして、夭折の棋士村山聖を演じた「聖の青春」。ポスターを見た時は、羽生善治は本人が出演したのかと思ったが、東出昌大だった。
 個人的に、この映画は幾重にも感慨深い。丁寧に言及が避けられているが、時代は阪神淡路大震災に重なっている。あの地震のとき、こんな災害は百年に一度だと思ったのは私だけではなかったはずだ。しかし、そうでなかったことは今では誰もが知っている。
 だから、あれから20年ほどしかたっていないが、今の私たちはあのころとは違う時代を生きている。時代が断絶し、そして、その断絶を飛び越えてしまった。
 阪神淡路大震災の1995年は、大震災とオウムサリン事件以外にテレビで何がやっていたかといえば、ダウンタウンとスマップだった。それに「星の金貨」か。あのころは、報道も娯楽もドラマもテレビの全盛時代だった。
 相対的に、映画はふるわなかった。特に、日本映画は、個人の感想として、観る価値があるとすら思っていなかった。
 なので、21世紀にデビューした、この主役ふたりの、役への打ち込み方には感動する。失礼ながら、20年前には、映画ってそんなに打ち込んで仕事をする価値のある場所だと思っていなかった。
 村山聖羽生善治ももちろん実在の人物で、その実在の人物を映画で演じるとき、いい意味で、これほど遠慮会釈なく、リスペクトをあらわにして、演じることに情熱を傾けるといったことが、映画の世界で起こるとは、20年前には思っていなかった。
 まるで、羽生善治村山聖が、映画というパラレルワールドで生きているみたいなのだ。松山ケンイチ東出昌大が、限界ぎりぎりまで本人たちに寄せて演じているので、実際の村山聖羽生善治とは違うという感覚がむしろ鮮明になり、かえって虚構のストーリーに没入できる。
 それは、考えてみれば、映画に限らず、すべての演劇にあたりまえのことかもしれないが、とくに、村山聖羽生善治の最後の対局は、将棋の対局っていう、一般には地味なはずのモチーフをこんなにも映画的に描きうることに改めて感動する。
 わきを固めている、筒井道隆柄本時生染谷将太リリー・フランキー安田顕の仕事ぶりも見事だ。みんな主役やれる人たちだよね。それがチームプレーに徹している。松井秀喜がいたころのヤンキースの出来のいい試合を観たみたいな気分。
 ことしは、「君の名は。」が席巻した日本映画界だったわけだけれど、そうでなくても、映画館に行くと、こういうナイスプレーが見られるって、日本映画はいまスゴイんだな。