「生き写しのプリマ」と「母の残像」

knockeye2016-12-01

 「生き写しのプリマ」は、「ハンナ・アーレント」って、かなり話題になった映画があったんだけど、あの監督マーガレット・フォン・トロッタと主演女優バルバラ・スコヴァの再タッグです。あの時、ハンナ・アーレントが言った「悪の凡庸さ」ってのは、とてもキリスト教的な考え方ですね。悪の対立概念は正義ではなく、愛であるべきだということですよね、えっ、違うの?。まぁ、私は仏教徒なので、責任は持てません。
 「母の残像」は「ソーシャル・ネットワーク」で、マーク・ザッカーバーグを演じた、ジェシー・アイゼンバーグが出てるので観に行ったんだけど、偶然にも、この監督もアメリカ人じゃなく、デンマーク生まれのノルウェー人だそうです。ヨアキム・トリアーって、「アンチクライスト」って映画を撮ったラース・フォン・トリアーって人の甥っ子だそうです。
 この2つのヨーロッパの映画が、なぜか知らないけどふたつとも、母の不倫、しかも亡くなった母の不倫を描いてるので、強引に並べてみてるわけです。
 映画としてどちらがオススメかと訊かれれば、「母の残像」のほうを薦めると思います。「生き写しのプリマ」は、生き写しって時点でもう出来過ぎな気がして、ちょっと古めかしい印象でした。
 亡き母の不倫を描いていても、映画としてはずいぶん違います。「生き写しのプリマ」の方はミステリーっぽい。「母の残像」のほうは、少年の成長物語って感じです。
 考えてみると少し変なのは、両方の映画とも、誰も母の不倫を責めないんです。しかも、いちばん責めていいはずの旦那さんが、いちばん冷静っていうかね。「生き写しのプリマ」のほうは、旦那さんが、亡くなった奥さんの亡霊に悩まされたりしています。「あいつが俺に復讐してる」とか言うわけ。
 そもそも「生き写しのプリマ」のほうは、奥さんが出てこない。バルバラ・スコヴァの二役なんで、事実上存在さえしていない感じです。ネタばらししちゃうと、実は兄さんと不倫してたんです。それが分かってはじめてアニキに向かっては怒りを爆発させる。でも、女房に対してはそれができない。
 「母の残像」のほうなんか、「ところで、お前、あいつと寝てた?」とか尋ねて、答えを聞いて、ただうなづいてます。
 両方のダンナとも、自分が奥さんのベターハーフになり得なかったことに挫折を感じているようです。
 今は確かに嫁さんが他の男と寝てたからって嫉妬したりするのはカッコが悪いし、それに、死んでしまった後に分かったとなると、墓場まで持ってったと言えるわけで、寧ろ、天晴れなレディズムと言えなくもない。残念なことに、私自身、同じ立場にたっても、怒らないんじゃないかと、そんな時代のリアリティは確かにあると思います。
 しかし、変な喪失感がある。そこで、何を失ったのかと考えると、信頼とか倫理とかじゃなく、エロティシズムを失っているのではないかと心配になります。
 かつては仮にも母性や女性が神聖視されていた時期があった。しかし、男も女もそう言う価値観を捨て去ることに同意して、現に、そんな価値観がなくなってしまってハッと気がつくと、みんなセックスをしなくなってしまった。そういう不思議な(あるいはごく真っ当な)時代を私たちは生きてる。
 自我を破綻させるエロティシズムの力が弱くなって、男も女もセックスよりゲームの方が楽しいって時代になった。
 「母の残像」の弟くんは、好きな子とセックスできる大チャンスがあったのに、みすみす逃してしまいます。美しい恋なんですけど、それがセックスに結びつかない。恋愛、セックス、結婚、この三題噺を現代に通用させるためには、かなり大胆な書き換えが必要になる気がします。
 ジェシー・アイゼンバーグが相変わらずいいです。
 初めての子が生まれる。その病院で、映画的偶然で元カノに会う。母の遺品整理のために数日、父の家に帰る。母の不倫を知ってしまう。近くに元カノの家がある。そういう微妙なところ。
 ガブリエル・バーンの父さんも、デヴィン・ドルイドの弟もよいし、やっぱ、映画としては「母の残像」の方を推したいです。