浦上玉堂と春琴・秋琴 展示替え

knockeye2016-12-23

 千葉市美術館で開かれていた「浦上玉堂と春琴・秋琴」の後期展示に、最終日になったけど駆け込んだ。ほんとはリピーター割引が効くはずだったんだけど、前期のチケットが見つからなかったのは痛恨の極み。
 この前は、秋琴について触れなかったけれど、会津藩士として幕末まで勤めていたために、画業のほとんどが10代と80代に限定されているという。
 しかし、会津戦争後、岡山に帰った晩年の絵はのびやかで、70年も絵筆を握っていなかったとは信じられない。会津時代の絵は失われたんじゃないだろうか?。下の絵は、今展覧会の新発見だそう。年代もはっきりせず会津時代のものなんじゃないかと想像してみたくなる。


 前に書いたように、秋琴は、幼くして母と死別し、僅か12歳で父とも別れて、故郷と遠く離れた会津に仕官したわけだった。
 ひとり旅の秋琴を気遣う玉堂の手紙が残っている。「1日あたりの宿代は32文くらいにし、宿屋に直に米を買わせ、昼の弁当にはその米の一部を握り飯として紙に包み・・・云々」
 こう思いを巡らせてみると、閑職に退いていたとはいえ、藩の大目付まで務めていた玉堂の脱藩については、軽々しく考えるべきではないかもしれない。寛政の改革言論統制に切迫した危機を感じていたかもしれない。
 少し時代は下るが、切腹に追い込まれた渡辺崋山も、小藩ながら家老を務めていた。玉堂がそうならなかったとは言いきれない。渡辺崋山は谷文晁の弟子だったので、そんなに遠い話とまでは言えない。
 春琴の絵は、先日貼っておいた屏風の山水画とは別の系統のものがあり、それはどうも、長崎に遊学した際に、沈南蘋の絵画を学んだようで、そのボタニカルアートっぽい写実性が、水墨画の空間意識と合わないのは明らかで、その辺、苦労したのではないかと思う。動植物を描いた屏風もあったが、山水画のそれと比べると、なんとも味気ない。
 しかし、当時、春琴の絵で人気があったのは、むしろ、動植物を博物誌みたく描いた絵巻物などであったのかもしれない。「美しい花鳥画が人気なのはわかるが、絵の本分は山水画にある」といったようなことを書いているそうだ。『論画詩』という絵画論も上梓しているので、その中にある一節かもしれない。ちなみに、『論画詩』に序文を寄せている頼山陽とは無二の親友だったそうだ。
 今年のGWごろに神戸で鶴亭の展覧会があった。鶴亭は、まさに沈南蘋に直に絵を学んだ(ここは私の思い違いでした。沈南蘋にじかに学んだ日本人は熊代熊斐だけでした)。田能村竹田の養子の田能村直入の絵も、今思えば、沈南蘋の影響を受けている。その画風は当時の日本画壇を席巻したと見えるわけだが、春琴の晩年の掛け軸《秋艶野禽図》は、沈南蘋の細密さと山水画の空間意識を併せ持つ名画だと思った。

 これを描いた時、春琴もすでに60を越していた。玉堂が没して30年が過ぎていたはずである。玉堂は、春琴の絵について、評が辛かったそうだが、これを観たらどう思うだろう、みたいなことを考えてみたくなった。